元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康が没しました。大坂夏の陣の翌年、徳川幕府の基盤を固めた上での大往生として知られます。
元和2年1月21日、駿河の田中に鷹狩に出かけた家康は、その夜、にわかに発病し、25日に駿府城に帰りました。 よくいわれるのが、21日の夕食に食べた鯛の天ぷらが原因というものですが、家康が没するのはそれから3ヵ月も経ってからのことで、天ぷらによる食中毒とは考えにくいというのが、最近の見方のようです。
病臥する中、3月21日には朝廷から太政大臣に任ぜられました。武家の者としては、平清盛、足利義満、豊臣秀吉に次ぐ4人目です。その前後、一時期小康を取り戻したりもしますが、4月に入ると病は重くなり、家康も自らの死期を悟って、様々な遺言をしました。よく知られているのが、以下のものでしょう。
わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、 天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし
「天下というものは、一人のための天下ではない。天下とはすべての人のものであり、政務を司る者は、そのすべての人のために天から託されているのである」と解釈できるでしょう。 自分の子孫が将軍家として相応しくなければ、別の者が将軍となって善政を布くことを恨みに思わないというのは、政を公のものとして家康が捉えていたことを窺わせ、現代にも通じるものを感じます。
その一方で、家康は「(自分の)遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行ない、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」。そして神として祀られることによって「八州の鎮守になる」と指示しました。自らを神格化する発想が、秀吉を意識してのものなのか、天海あたりからの進言であったのかはわかりませんが、「善政を行なうのであれば、他人が将軍の座を奪っても構わない」と言いながらも、徳川幕府のために、自分が関八州の鎮守たらんとする言葉は、子々孫々の繁栄を願う家康の人間くささも感じさせます。
辞世の句は 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」 4月17日、家康没。享年75。戦国の世を戦い抜き、すべての武将に打ち勝って頂点を極めた男の最期でした。
更新:11月24日 00:05