2017年04月11日 公開
2022年08月09日 更新
伝通院の千姫墓
慶長2年4月11日(1597年5月26日)、千姫が生まれました。徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁いだことで知られます。
淀殿の妹・江(お江与の方)の娘として伏見で生まれた千姫は、徳川と豊臣をつなぐ宿命を負っていました。千姫が4歳の時に関ケ原の合戦が起こり、祖父の徳川家康が事実上、天下を取ります。さらに千姫が7歳の時に家康は征夷大将軍に任命されて幕府を開き、名実ともに天下人となりました。そうなれば当然、それまで家康が臣従していた豊臣家との関係は微妙になります。そこで亡き秀吉との取り決めに従い、翌年、千姫は8歳にして豊臣秀頼に嫁ぎました。さしあたっての徳川と豊臣の融和でした。
秀頼は千姫よりも4歳年上で、母親同士が姉妹なので、従兄妹で夫婦になったことになります。二人は仲睦まじく、秀頼が千姫の黒髪を調える「鬢削(びんそぎ)」(成人のしるし)を自ら施した記録も残っています。一方で豊臣家は依然、摂関家として朝廷から重んじられており、家格は徳川家よりも上でした。もし秀頼が関白に任命されれば、秀頼が天下人になってもおかしくありません。このことを危惧した家康は慶長16年(1611)、「千姫の祖父」として二条城に秀頼を招き、徳川が豊臣の上位に立つことを示そうとしますが、むしろ徳川と豊臣は対等であることを印象づける結果となります。焦った家康が仕掛けたのが、慶長19年(1614)から始まる大坂の陣でした。 大坂夏の陣では千姫を徳川方へ逃亡させないようにと、淀殿は大坂城内で千姫の着物の袖を膝の下に敷いて離さなかったといわれますが、おそらく事実ではないでしょう。むしろ大野治長に説かれて、秀頼の助命嘆願のために千姫は後ろ髪を引かれつつ父親の秀忠本陣に向かったのが、実際のところではなかったかという気がします。しかし、千姫の嘆願もむなしく、秀頼は自刃しました。秀頼、享年23。千姫は19歳でした。
2年後の元和2年(1616)、千姫は桑名藩主・本多忠政の嫡男・忠刻と再婚。化粧料10万石とともに桑名へ、その翌年には姫路に移封となり、姫路城に入りました。国宝・世界遺産の姫路城に、今も千姫ゆかりの化粧櫓があるのはそのためです。千姫は毎朝、化粧櫓から百間廊下に出て、男山天満宮を遥拝しました。天満宮には秀頼との思い出の品の羽子板が奉納されていたといいます。忠刻との間に元和4年には長女・勝姫、翌年には長男・幸千代が生まれますが、幸千代は3歳で没し、寛永3年(1626)には夫・忠刻も病死しました。30歳の千姫は勝姫を連れて本多家を出て江戸城に戻り、出家して天樹院と号し、竹橋の屋敷で暮らします。
寛永20年(1643)には鎌倉・東慶寺の伽藍を再建しますが、東慶寺の住職・天秀尼は、豊臣秀頼と側室の間の娘・奈阿姫で、大坂の陣後、処刑されかけたのを、千姫が自分の養女とすることで一命を救っていた経緯がありました。
寛文7年(1666)、千姫は江戸で死去。享年70。亡骸は曾祖母・於大の方の菩提寺・伝通院に葬られ、高野山奥之院にも墓碑が建てられています。奥之院では千姫の母親・江の墓碑が最も巨大ですが、千姫のそれは母親に寄り添うように建てられているのが印象的です。