2017年08月02日 公開
2023年04月17日 更新
豊臣秀頼像(大阪市、玉造稲荷神社)
文禄2年8月3日(1593年8月29日)、豊臣秀頼が生まれました。豊臣秀吉と側室の淀殿との間の子で、豊臣家を継承し、大坂の陣で滅んだことで知られます。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で徳川家康が勝利すると、豊臣家は全国にあった蔵入地を失い、摂津・河内・和泉の60万石程度の一大名に転落したとよくいわれます。しかし、実は家格の上では依然、徳川氏を圧倒していました。今回は、家康が本当に恐れていたのは、秀頼の関白就任ではなかったかという視点から、秀頼という人物を眺めてみましょう。
秀頼が誕生した時、すでに従兄の秀次が秀吉より関白を譲られ、豊臣家の後継者に決まっていました。秀吉は秀次の娘と秀頼を結婚させて、いずれ秀次から秀頼に関白を継承することを考えていたといいます。しかし文禄4年(1595)、秀吉は秀次から関白職を奪い、自刃させます。秀吉はあわせて秀次の妻子ことごとくを処刑、これによって豊臣の後継者は唯一、秀頼であることが明確になりました。
そして秀吉は、武家の家格を公家のそれに準じて定めます。具体的には、豊臣家が「摂関家」、徳川家康や前田利家、毛利輝元ら五大老は「清華家」というものでした。清華家では、大臣にはなれても、摂政・関白になることはできません。つまり公武に君臨できる家格は、摂関家である豊臣家のみなのです。
関ケ原合戦から3年後の慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きました。これによって家康は天下人になったといわれますが、実は必ずしもそうとは言い切れません。というのも、私たちは征夷大将軍といえば、全国を支配する絶対的な存在と考えがちですが、当時はそうでもなかったのです。たとえば天正13年(1585)に秀吉が関白に就任した時、名目上とはいえ、征夷大将軍が存在していました。足利15代将軍義昭です。無論、将軍義昭によって関白秀吉が何らかの政治的制約を受けることは一切なく、頂点に立つ天下人は関白秀吉でした。僅か10数年前にそうした前例がある以上、もし秀頼が関白に就任すれば、関白秀頼こそが正当な天下人として君臨する可能性が高かったのです。
それを裏付けるものとして、将軍家康が諸大名を動員して行なった江戸城の天下普請において、豊臣家のみは秀頼の直臣が奉行として采配する側に立っており、徳川の指揮下には入っていません。また秀頼は全国の有名寺社の堂塔伽藍を復興させますが、その際、独自に地元大名を奉行に任命して、あたらせています。これも天下人でなければ為しえない権限でした。
そして関ケ原合戦後も、大坂冬の陣が起きる慶長19年(1614)まで、毎年正月には、天皇の勅使や八條宮智仁親王をはじめ、門跡、公家が残らず秀頼の大坂城に挨拶に出向いています。 外様大名の多くも同様で、これも他の大名家では絶対にあり得ないことでした。 もし秀頼が関白に就任すれば、家格の低い徳川将軍も、大坂に挨拶に出向くのが筋ということになります。こうなれば天下人は誰なのか、という話になるでしょう。 また、家康が迂闊な難癖を秀頼につけようものなら、徳川が朝廷を敵に回すことにもなりかねません。そして、朝廷は秀頼を関白とするのに、やぶさかでない姿勢を見せていました。
折しも家康が73歳であるのに対し、秀頼は22歳。将軍職は秀忠に継がせたとはいえ、家康の死後、秀頼が関白になれば、秀忠では太刀打ちできないという思いもあったのでしょう。 ここに家康は、秀頼が関白になる前に滅ぼさねばならないと、腹をくくるのです。 こうして見ると、事前に勝負がついていたように語られる大坂の陣も、実は家康にとっては薄氷を踏む思いであり、またいろいろな可能性が秘められていたことが窺えるのです。
更新:11月22日 00:05