2016年02月15日 公開
2022年08月01日 更新
「歴史街道」2016年2月号より
「真田信繁(幸村)は死に場所を求めて大坂の陣に臨んだ」…。時にそう語られることがあるが、果たして事実か?
温和で誰からも愛された真田の次男坊は、武田信玄を敬慕する父・昌幸の領民を守る姿勢と、大敵相手に智謀で挑む姿から、「真田の戦い方」を学ぶ。
そして、大戦を望む家康の言いがかりに窮した豊臣家が助けを求めてきた時、信繁は迷わず起ち上がるのだった。
真田といえば真田幸村、真田十勇士を連想される方も少なくないことでしょう。かく言う私も、長野県上田市の観光大使を務めており、大使名は十勇士の一人、根津甚八です。
ところが人口に膾炙する幸村という名は、戦国期の史料で確認できず、代わりに真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。最近は歴史研究の場に留まらず、真田信繁の名が一般に浸透し始めており、今年の大河ドラマ「真田丸」でも、主人公の名は信繁にしているそうです。信繁がなぜ幸村と呼ばれるようになったのかについては別稿に譲りますが、信繁という名は、真田氏と武田氏の深い結びつきを象徴するものと私は考えます。
信州小県(現在の上田市周辺)の真田氏が甲斐の武田信玄に臣従するのは、信繁の祖父・幸隆(幸綱)の時のこと。実は幸隆は信玄の父・信虎らによって小県を奪われており、流浪後、信虎を追放した息子・信玄に仕えて、旧領回復の悲願を実現しました。武田の躍進を智謀で助けた幸隆は信玄から重用され、息子たちも武田に仕えます。その中の一人が信繁の父となる昌幸で、幸隆の三男でした。信玄は若い昌幸を人質ではなく、近習として用い、いわば将来の武田を支える「幹部候補生」として自分の側近くに仕えさせたのです。
名将と呼ばれる信玄の政治手腕や軍事における采配を間近で目にしながら、昌幸は多くのことを学びました。とりわけ信玄の領民の生活を守る姿勢、一種の「王道政治」の理念に深く感銘を覚えたことでしょう。
たとえば隣国信濃への進攻について、信濃の豪族たちにすれば武田の侵略ですが、当時の信濃は守護職の小笠原氏が力を失い、豪族たちが勢力争いに明け暮れていて、信濃の領民たちにすれば落ち着いた生活は望めませんでした。むしろ武田の支配下に入り、統治が安定した方が領民にすれば助かるのです。実際、信玄は信濃の大部分を勢力下に置き、さらに信濃守護職にも任じられますが、その背景には領民の支持がありました。つまり円滑な統治の基本は、民の生活を常に守る姿勢にあり、統治者とは「護民官」でなければならないという理を、昌幸は信玄から学ぶのです。
また、そんな信玄を助け、新たな支配地の人心掌握に尽力したのが、武田の副将にして信玄の弟、武田典厩信繁でした。典厩は99カ条の家訓を残していますが、そこには慈悲の心の大切さも説かれています。つまり信玄と同じ考え方に立って、「護民官」としての兄を支えていたことが窺えるのです。
後世、「まことの武将」と称えられた典厩は、第4次川中島合戦で自ら上杉軍への盾となり、信玄を守って討死。その合戦が初陣であったという昌幸は、命を捨てて兄のために働いた典厩の姿に、武将としての理想像を見出し、その生き方にあやかる意味で、己の次男に信繁と名付けたのではなかったでしょうか。ちなみに真田信繁の誕生は典厩の死から6年後の、永禄10年(1567)のことでした(異説あり)。そして、「統治者は護民官であれ」という信玄の姿勢は、その後の昌幸や信繁らの生き方にも大きな影響を与えることになります。
更新:11月21日 00:05