2016年02月15日 公開
2022年08月01日 更新
「真田信繁は死に場所を求めて、大坂夏の陣に臨んだ」と時に語られることがありますが、私は信繁を悲愴感に満ちた、悲劇の将だとは全く思いません。むしろ彼には天性の明るさがあり、どんな時でも顔を上げて口笛を吹いているような、不思議な陽性を感じます。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦前夜、真田昌幸は家を2つに割る決断を下します。すなわち昌幸と次男の信繁は西軍に、長男の信幸は東軍につくという選択でした。信幸は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を正室にし、一方の信繁は大谷吉継の娘を正室にしていたことからの苦渋の決断とされますが、「たとえどちらが勝っても、我らの本領と領民は真田の手で守る」という、昌幸の固い決意の表われと受け取ることもできるのかもしれません。また信繁にすれば、大坂で三成や吉継が私心なく尽力しているのを見ているだけに、統一政権をあえて崩壊させようとする徳川家康の私欲に与することは、望まなかったでしょう。
そして昌幸・信繁父子は上田城に拠り、徳川秀忠の大軍を迎え撃って散々に翻弄しますが、関ケ原では西軍が敗れ、三成も吉継も落命します。昌幸・信繁父子は処刑されるところ、死一等を減じられて高野山に配流となりました。父子にすれば「上田城では勝っていた」という無念の思いはあったでしょうが、目論見通り、昌幸の支配地を信幸が代わって治めることになり、領民を真田が守ることができたのはせめてもの救いだったはずです。
父子はほどなく高野山から麓の九度山に移り蟄居生活を続け、11年後の慶長16年(1611)、昌幸は65年の波乱の生涯を終えました。信繁のもとに豊臣家が大坂入城を要請してきたのは、それから3年後のことです。
さて、信繁は何のために大坂の陣を戦ったのでしょうか。前述したように、単に死に場所を求めたという見方は、私は賛同できません。たとえば信繁は、生前の父・昌幸とともに、遠からず徳川と豊臣は手切れとなると読み、高野山の玄関口である九度山を情報収集に活用したといいます。また情報を集めるべく活躍した忍びたちが、真田十勇士のモデルになったとも…。つまり信繁は、やる気満々だったのです。では、何のために戦うのか。
父・昌幸の場合は真田家当主として、領民を自ら守ることに戦う意味を見出していました。しかし信繁は当主ではなく、領民を守る「護民官」としての役目は、兄・信幸(信之)が果たしてくれています。つまり立場的に信繁はフリーでした。そこへ徳川家康が、かつての信繁の主家・豊臣家に言いがかりをつけ、大戦を引き起こそうと画策し、豊臣家が助けを求めて来た。ならば、これに応こたえるのが武士ではないのか…。そう考えても不思議ではありません。また信繁にすれば、かつて関ケ原合戦を引き起こして、三成や吉継が支えた統一政権を壊した家康への憤りと、不遇のまま配流先で没した父への思いもあったことでしょう。そして「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」ことを期したのではないでしょうか。
もちろんこれはあくまで私の推測であり、信繁自身の真意が奈辺にあったのかはわかりません。しかし、だからこそ後世の私たちは、家康を討ち取る寸前まで追い詰めた信繁に、さまざまな思いや夢を仮託して、人物像を思い描くことができるのでしょう。いわば一人ひとりが、それぞれの信繁像を抱いているといっても過言ではないのです。そんな懐の深さを持つ人物は、日本史上でも稀有であり、それがまた、真田信繁が現在でもまばゆい輝きを放ち続けている所以ではないでしょうか。
更新:12月04日 00:05