真田氏の居城・上田城
2016年の大河ドラマ「真田丸」。主人公の真田信繁(幸村)は戦国随一の人気を誇る武将だが、彼の祖父と父もまた、上杉謙信や武田信玄が一目置く武将であった。真田幸隆と、昌幸。この父子抜きにして、信繁を語ることはできない。「真田丸」時代考証が語る、父子の魅力とは。
真田信繁(幸村)をはじめとする戦国時代の信州真田氏といえば、綺羅星の如く居並ぶ戦国武将の中でも、1、2を争う人気を誇ります。しかし、その一方で「真田の活躍の多くは『伝説』に過ぎず、過大評価されているのではないか」という声を耳にすることも少なくありません。
しかし、私は2つの点で、そうした論調とは異なる考えを抱いています。
まず、真田氏の活躍は「伝説」に拠るところが多いと捉えられがちですが、彼らは決して史料に乏しい一族ではありません。
真田氏は、独立大名となる前は数カ村単位で地域を支配する「国衆」と呼ばれる存在でした。実は、戦国の国衆の中で圧倒的に史料が残っているのが真田氏であり、むしろ「恵まれている」と言えます。後述しますが、それは信繁の祖父と父にあたる真田幸綱(幸隆)・昌幸父子が、武田信玄・勝頼の右腕として活躍したことと無関係ではないでしょう。
そしてもう1つ、真田氏に対する評価は決して「過大」ではありません。
かく言う私も当初は、実力・実績以上の評価を受けているイメージを抱いていました。しかし、研究を進める過程で、たとえば昌幸がいわゆる「天正壬午の乱」で、北条氏、徳川氏、上杉氏という錚々たる大大名と渡り合った姿に一次史料で触れ、過大評価どころか、むしろ過小評価されているのではないか……。そう考えるようにすらなりました。
ゼロから出発しながらも、智謀を武器に戦国の荒波を潜り抜け、これほどドラマティックに乱世を歩んだ一族は、真田氏を置いて他に存在しません。そして、最初の一歩を踏み出し、文字通り真田躍進の礎を築いたのが幸綱であり、その跡を継ぎ、独立大名としての地位を築いたのが昌幸でした。
真田氏の中では、昌幸の息子で、来年の大河ドラマの主役でもある信繁にばかり目を向けられがちですが、その祖父と父の存在に触れずして信繁を語ることはできません――。
戦国以前の真田氏については、その発祥は上野国(群馬県)であるという説が一部から提起されるなど、今も多くの謎に包まれています。
清和天皇の子孫を称する名族・滋野一族の海野氏の嫡流ともされますが、近年の研究では完全なる脚色と考えられています。恐らくは真田氏が自称したのでしょうが、これは滋野姓海野氏を名乗ることが豪族を束ねる上で効果的であったからで、当時においては珍しいことではありません。
そんな一族が歴史の表舞台に登場したのが、真田弾正忠幸綱の代でした。
幸綱の誕生は永正10年(1513)ですが、諱(実名)がよく問題にされます。幸綱は、一般的には「幸隆」の名で知られます。確かに、江戸幕府が編纂し、幸綱の孫・信之健在の時代に成立した『寛永諸家系図伝』にも「幸隆」と記録されています。
しかし、一次史料を追うと、壮年期まで「幸隆」と記されたものは皆無です。様々な史料を照らし合わせれば、幸綱は出家を契機として「幸隆」に改名したと考えるのが自然であり、ならば読み方は「こうりゅう」ではないか……。以上が、現時点での私の考えです。
信州小県・真田郷を本拠としていた幸綱ですが、大きな転機が天文10年(1541)の海野平合戦でした。幸綱は村上義清・武田信虎らの連合軍に敗れ、故郷を追われます。
幸綱と村上義清は以前より小競り合いを繰り返していましたが、その上、武田氏まで加われば多勢に無勢、幸綱は上州への亡命を余儀なくされました。「必ずや、故郷を取り返す」。幸綱は心中、断乎たる決意を固めたことでしょう。
この時、幸綱とともに落ち延びたのが、縁戚関係にあったともいう海野氏宗家・海野棟綱の一族で、彼らの多くは関東管領・上杉憲政を頼りました。関東管領といえば当時、トップブランドであり、誰もが「寄らば大樹の陰」と考えたわけです。
しかし、幸綱は異なりました。真田関係の軍記物『加沢記』によれば、幸綱は、
「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。いかに関東管領の高位にあるとはいえ、あまりにも事々しい。上杉家は将来が危うく見える」
と冷静に分析し、「恃みにならぬ上杉についても、我らの旧領回復には何の足しにもならない」と早々に見切るのです。そして――幸綱が最終的に身を寄せたのが、甲斐の武田晴信(信玄)でした。
更新:11月21日 00:05