真田本城跡より
幸綱にとって武田氏は、信虎の代に村上義清とともに自分たちを真田郷から追い払った仇敵に他なりません。
しかし幸綱は、信虎を家中から放逐した信玄が、上杉氏を上回る勢力をもつこと、また真田郷を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、幸綱を求める武田氏のヘッドハンティングに応じる決断を下すのです。
私は、この判断に幸綱の「凄み」を感じずにはいられません。
現在に喩えれば、多くが関東管領という大企業にいれば「何とかなる」と思っている中、情報収集能力と分析力を駆使して経営の危うさを見抜き、若手社長率いるライバル企業の一員となって、自らの志を遂げる……。
権威よりも己の考える戦略や戦術、情勢判断を信用したわけですが、この「したたかさ」は、幸綱以降の真田一族にも共通するものです。そして、関東管領上杉氏がほどなく没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、幸綱の眼力が正しかったことは歴史が証明しているでしょう。
そして幸綱自身も、武田氏躍進の立役者の1人でした。幸綱の活躍といえば、天文20年(1551)の砥石城攻略が挙げられます。砥石城は怨敵・村上義清の拠点であり、信玄でさえ陥とせなかった要害でした。
しかし幸綱は砥石城を独力で攻略してのけ、信玄にその功績を讃えられて、「悲願」の旧領回復を成し遂げます。幸綱の采配ぶりは史料からはなかなか窺えませんが、いずれの文献も「乗っ取る」という表現で記しています。
戦国時代の「乗っ取り」といえば、密かに敵城に近づき、手引きする人間を通じて城中に雪崩れ込み、一気に城を制圧するのが常套手段でした。砥石城の戦いは真田関係の史料にも家臣の戦死の記録がほとんどなく、また、弟・矢沢頼綱が砥石城内にいたことからも、幸綱の戦いぶりがまさにそれであったことが窺えます。
派手な陣頭指揮でなく、まさに孫子の兵法を地で行く、「戦わずして勝利をおさめる」のが幸綱の戦い方であり、だからこそ難攻不落の砥石城を攻略できたのでしょう。
かくして天正2年(1574)にこの世を去るまで、幸綱は武田家を支え続けるのです。
幸綱の活躍もあり、真田氏は武田家臣団の中でも極めて特異な存在となります。というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は皆無だからです。
幸綱の三男が信玄の母方の大井一族の武藤家に養子入りし、奉行(官僚機構を担う一員)を務めたのも顕著な例といえますが、この三男・武藤喜兵衛こそ、後の真田安房守昌幸でした。
外様で奉行を務めるのは前例のない「快挙」でしたが、これは幸綱の威光のみによるものではないでしょう。昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られましたが、信玄の身の回りの世話をする奥近習衆に取り立てられて頭角を現わし、奉行を任されるに至りました。
信玄は昌幸を「武田の宿老分にしたい」とまで語ったといいますが、幼いころから昌幸の将才は抜きん出ていたのです。
昌幸もまた、父・幸綱の智謀を色濃く継ぎつつも、名将・信玄から薫陶を受け、多くを学びました。外交、調略、用兵、作戦立案、軍の編成、実戦指揮……。昌幸にとって信玄の教えは、乱世を生き抜く上での大きな糧となったことでしょう。
そんな昌幸の運命を変えたのが、幸綱が逝去してから1年後に勃発した天正3年(1575)の長篠合戦でした。
昌幸は武藤家の当主として参戦していましたが、真田の家督を継いだ長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死。合戦後、図らずも昌幸が、真田の家を継ぐことになったのです。
更新:11月21日 00:05