
1493年、京都では管領・細川政元が、将軍・足利義材をクーデターで追放する「明応の政変」が勃発。同じ年、泥沼の「享徳の乱」に揺れる関東でも、歴史の転換点が訪れる。伊豆を拠点としていた堀越公方を、のちの北条早雲が滅ぼした。
将軍(公方)級の権威が武力によって排除され、従来の政治秩序は各地で揺らぎ始める。こうして、実力がものを言う戦国時代が幕を開けた。
戦国時代というと、織田信長や武田信玄のような有力大名が各地に現れた時代という印象がある。しかし、その広がり方には地域差があり、とくに関東では、長く争乱が続いたにもかかわらず、地域を代表する戦国大名が育たなかった。それはなぜか。出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、解説する。
※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』(日経BP)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
1493年、室町幕府の管領の細川政元が、将軍の首をすげかえるクーデタを起こしました。
足利家の将軍は形だけのものとなり、政治の実権は細川政元が握りました。事実上の「細川政権」の始まりです。ちなみに、ここからちょうど500年後の1993年、細川氏の末裔である、日本新党の細川護熙が自民党を下野させ、細川内閣が発足。戦後55年体制が終わります。面白い偶然ですね。
1549年、その細川政権も、家臣だった三好長慶に倒されます。長慶は、将軍の足利義輝を追放し、代わりの将軍を擁立しませんでした。
細川政権に代わった「三好政権」は、今の大阪府高槻市に位置する芥川城などを拠点に、畿内を支配しました。畿内とは、摂津(兵庫・大阪)と河内、和泉(いずれも大阪)、大和(奈良)、山城(京都)という5カ国の総称で、五畿内ともいいます。
三好政権は、1564年に長慶が死去すると、内紛が起き、勢いを失います。内紛の中心にいた一人は、三好政権を支えた優秀な官僚、松永久秀でした。
家臣が主君から権力を奪う事件が頻発して、いかにも下剋上の戦国時代です。
戦国時代とは、全国で喧嘩をしていた荒れた時代ですが、荒れ方には地域差がありました。東のほうが荒れていました。
なぜかと考えると、室町幕府は日本を東西に分ける分断統治でした。東には、京都の将軍(公方)とは別に、鎌倉公方がいて、守護を任命したり、所領を安堵したりと、強い権限を持っていました。そんな鎌倉公方が、お目付け役の関東管領の上杉氏と大喧嘩を始めたのが、1454年の享徳の乱でした。30年近い内乱となり、鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分かれたのでした。
つまり、関東にはもともと、鎌倉公方や関東管領という旧体制の権威がいたわけです。しかし、鎌倉公方は、あくまで地元の権威で、遠くの京都には、鎌倉公方と同等かそれ以上の権威である「京都の公方」がいました。足利将軍家という「京都の公方」は、関東管領というお目付け役などを置き、鎌倉公方の権威に介入してきます。そのため、関東の権威は不安定でした。
そんなところに、関東の外で成長した戦国大名が出てきます。例えば、越後(新潟)の長尾景虎(上杉謙信)や、甲斐(山梨)の武田信玄、それに堀越公方を追放した北条早雲の子孫である北条氏、さらに東海地方の雄である今川氏など。こうした大きな力の対立のなかで、関東の小領主たちは、あっちに味方したり、こっちに味方したり、分裂や連合を繰り返し、泥沼化した不安定な状況が続きました。
そのため、関東では有力な戦国大名が育ちませんでした。
それに対して、西日本では、有力な戦国大名が育っていきました。そのプロセスも、ぐちゃぐちゃした東日本とは対照的で、比較的シンプル。ブロックごとの勝ち抜き戦といった感じです。まず、周防(山口)と北九州です。
この地域を押さえて、当初、大きな力を持っていたのは、大内義興でした。博多商人などと組んで、明との勘合貿易を幕府に代わって行っていました。しかし、その子どもの大内義隆は、重臣の陶隆房(のちに陶晴賢と改名)にクーデタを起こされ、自害します。後を継いだ大内義長は、陶晴賢の傀儡でした。下剋上です。
その後、隣国の安芸(広島)で、毛利氏が力をつけてきました。毛利氏は陶晴賢を自害に追いこむと勢いに乗り、大内義長も自害させました。名門・大内氏は滅びます。滅びるまでに、下剋上が2回あったわけですね。
さて、これで、周防の獲得者は、毛利氏となりました。
一方、北九州はというと、大内氏が滅びるやいなや、豊後(大分)の大友氏が、これ幸いと奪います。九州の南では、島津氏が勝ち残ります。
四国はというと、貴族の出身でありながら、大名化していた一条氏が土佐(高知)にいました。しかし、その下で力をつけた国人の長宗我部元親が、一条氏を傀儡化し、土佐全域を制圧して、やがて四国をほぼ統一します。国人とは、地元に昔からいる武士のおじさんでしたね。
更新:02月11日 00:05