2025年05月01日 公開
三太刀七太刀之跡
戦場での活躍こそが華とされ、武功を挙げた人物が注目されることが多い戦国武将。しかし、合戦での功績は少なくとも、文化面で大きな足跡を残した武将たちもいました。時代が違えば、より評価されていたかもしれない人物も...。本稿では、武田信玄の弟・武田信廉を紹介します。
天文元年(1532)、甲斐守護・武田信虎の4男として生まれた。武田晴信(のち信玄)にとって、11歳下の同母弟にあたる。諏訪支配の処理や駿河今川家との外交にあたり、武田一門衆の2番手として80騎を率いた(『甲陽軍鑑』)。
永禄4年(1561)、一門衆筆頭の兄・信繁が第四次川中島合戦で討ち死にすると、年齢と経験によって信繁の子・信豊より席次の高い筆頭に上がった。信濃深志城代、同じく高遠城主を歴任している。華々しい戦いの功は無いが、地道で安定した来歴と地位と言って良いだろう。
しかし、信廉の価値は画業に尽きる。
宗教画にも手を出したが、特に父を描いた「武田信虎像」(大泉寺蔵)、その正室で信玄・信廉らの母である大井夫人を描いた「武田信虎夫人像」(長禅寺蔵)は、特徴を良く捉えて生き生きとした姿を現在に伝えている。
また、烏帽子に直垂という姿の信玄像(持明院蔵)も彼の作品ではないかという説があるが、そうだとすれば兄弟仲の良さもうかがえる。
元亀4年(1573)に兄・信玄が西上作戦中に発病し、三河から甲斐に戻る途中で没すると、死を内外に秘するために風貌が似ている信廉が信玄に成りすまして甲府への引き揚げを成功させた。
北条氏政が信玄の死去を確かめるため、見舞と称して板部岡江雪斎を甲斐に派遣した際も影武者として応接し、見事にだまし通したという(『甲陽軍鑑』ほか)。卓抜な画家としての観察眼が、兄・信玄の仕草や表情の把握と再現に生かされたのだろうか。
天正10年(1582)、武田家滅亡の際に信廉は織田軍に殺されている。平和な時代ならば、画家として穏やかに一生を過ごすタイプの人物だった。
更新:05月02日 00:05