戦場での活躍こそが華とされ、武功を挙げた人物が注目されることが多い戦国武将。しかし、合戦での功績は少なくとも、文化面で大きな足跡を残した武将たちもいました。時代が違えば、より評価されていたかもしれない人物も...。本稿では、『信長記』を書き上げた武将・太田牛一を紹介します。
大永7年(1527)、尾張春日井郡山田庄安食郷(現在の愛知県春日井市・西春日井郡・名古屋市の一部)に生まれた太田牛一は、織田信長に足軽として仕え、のち弓の腕を認められて「弓三張りの衆」に取り立てられた。
永禄8年(1565)の堂洞城(美濃中部)攻めでは、南からの攻撃部隊に属し、二の丸の入り口の方にあった高い家屋の屋根にただひとり上り、百発百中で敵に矢を命中させた。
信長から「気味良し、見事!」と3度にわたって伝達されるほどの活躍により、戦後に加増された。彼の知行高は3千貫(6千石)というから、高級旗本格と言って良いだろう。
その後、牛一は官僚的な働きにシフトしていく。彼は寺育ちで後に還俗したという経歴の持ち主であり、事務方に必要な学問知識を備えていたのだろう。急成長急拡大する織田家にとって、それは弓の上手よりも優先される人材だった。
そのうえ、おそらく、牛一は真面目でマメな性分だった。のちに彼が『信長記』をはじめとする膨大な史料群を執筆する背景には、主君の動向を都度記録する観察魔・メモ魔としての勤勉な積み重ねがあったわけで、信長もその面に期待したのではないか。
その後の官僚生活だが、『尾張名所図会』には信長の右筆(秘書)とあるものの、右筆ではなくあくまで側近衆であった。
元亀3年(1572)以降、上賀茂社の争論を処理、賀茂競馬の奉行、賀茂社への指導と、主に賀茂の庶政を丹羽長秀の与力としておこなっている。賀茂社との密接な関係によるものだろうか。
天正10年(1582)、本能寺の変の後は、与力として従っていた長秀にそのまま仕える形となったが、天正13年(1585)、長秀の死没によって羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に転仕。秀吉直轄領の山城国南部で代官を務めるなど、堅実にキャリアを積みあげていく。
さて、そんな牛一がいつから『信長記』の執筆を開始したかは不詳という他無いが、先に記したようにメモ魔として信長の動静を細大もらさず記録する日々のルーチン自体は、かなり早い時期から始まっていた筈だ。
賀茂社に関与していたころは同神社から何度も筆を贈られているが、これも『信長記』あるいはその原資となる手控えの執筆に大量の筆を消費したためかも知れない。
豊臣秀吉が亡くなる慶長3年(1598)までに、『信長記』はほぼ完成したが、勤勉な牛一は「事実を省略せず有りもしない事を加えていない。もし1つでも噓を書くなら天道に背く」と所信を披露し(池田家本『信長記』)、実際に牛一の文章は愚直なまでに事実を並べ、修辞は最小限に淡々と描写することに重きがおかれた感が強い。新たな事実や明らかな誤りが見つかると、それを採り入れた異本を作成し、現在そのバリエーションは多岐にわたっている。牛一のこの真摯な態度があって、織田信長の事績は今も燦然と光を放って語られ続けているのだ。
その後、秀吉の遺児・秀頼に仕えた牛一は、大坂城東南の玉造で暮らしながら執筆活動に没頭。『大かうさまくんきのうち』『太田和泉守記』など、信長・秀吉・徳川家康の天下人3人とその時代に関する貴重な軍記類(「五代之軍記」)・物語類を書き上げ、慶長18年(1613)3月、世を去った。 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての研究は、いまだ彼の文筆の業績に多くを負っている。
更新:04月26日 00:05