桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)
徳川家康は、幼年より今川氏の人質として過ごしていた。そんな家康が、桶狭間合戦において今川義元が討ち死にした後、いかにして織田軍の攻勢から逃れ、大名として独立するに至ったのか。歴史研究家の河合敦氏が、その足取りを解説する。
※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです
さて、桶狭間合戦が起こったのは、家康の初陣から2年後のことだが、そもそもなぜ義元は大軍で尾張へ進軍したのだろうか。
この時期、今川氏は、小田原の北条氏と甲斐の武田氏とのあいだで甲相駿三国同盟が成立しており、領国の東側は安泰だった。だから大軍を西側へ投入しやすい状況になっていた。
一方で、織田信長がほぼ尾張一国を制圧する勢いをみせており、それに対抗するため、義元はさかんに尾張にも侵攻。尾張の沓掛城、大高城、鳴海城などは今川方の城となった。
信長としては、こうした今川方の城がある知多郡、愛知郡を何としても自分の手に収めたい。そこで、鳴海城と大高城を攻めとる準備をはじめた。まずは鳴海城の付け城として丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を、また大高城に鷲津砦、丸根砦を構築したのである。
なお、かつては「義元は、天下に号令をかけるため上洛を目的として兵を動かし、尾張で信長と桶狭間合戦に至った」といわれてきた。
その説は消滅したわけではないが、義元の目的がわかる一次史料(当事者の手紙・日記など)がないため、研究者たちによって多くの推論がなされ、「西三河を固めるため」「尾張を制圧するため」など、諸説が登場している。ただ、少なくとも、義元が味方の鳴海城や大高城の後詰を考えていたのは確かだと思う。
なお、今川方の兵力としては2万5千程度を支持する研究者が多く、一方、信長が動かせた兵力は最大4千程度だといわれている。
これほどの大軍を率いて義元が行軍してきたのは、後詰を目的としつつも、場合によっては一気に信長と雌雄を決する狙いがあったことは否定できないだろう。いずれにせよ、信長は義元の首を取るという、まさかの大勝利を遂げたのである。
もっとも、勝因については諸説が入り乱れている状況だ。主題から外れるが、せっかくなので簡単に主な説を紹介しておこう。
桶狭間の戦いは、桶狭間という谷間に今川義元が休息していることを知った信長が、少数を引き連れて大回りして背後の山(崖)上に出て、雷雨のなか駆け下って義元の本陣を突いて勝利をおさめたとされてきた。
この記述は、桶狭間合戦から半世紀後に編纂された小瀬甫庵の『信長記』がもとになっている。とても面白いので江戸時代に広まり、明治時代中期に陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 桶狭間役』に採用され、国定教科書にも掲載されたことで、通説になってしまった。
ただ、本当の戦いの様相はまったくわからない。なぜなら、戦いの様子が書かれた一次史料が存在しないからだ。
二次史料(主に後世に作成された史料)として信憑性の高いものが、太田牛一の『信長公記』である。牛一は信長の家臣で、桶狭間のとき30代で合戦に参加した可能性もある。
藤本正行氏は1980年代に『信長公記』の記述から「桶狭間の戦いは、桶狭間山に陣取る今川義元軍への正面攻撃」だと論じ、やがてこの説が主流になった。ただ、最大の疑問は、なぜ少数の織田軍が大軍の今川軍に勝てたかである。
藤本氏は偶然説をとるが、谷口克広氏は桶狭間山の麓のほうには小荷駄隊など今川方の非戦闘員がおり、精鋭の織田軍の襲来で大混乱を来し、その者たちが本陣になだれ込み、瓦解したとする。
黒田日出男氏は、織田軍が到着したとき、今川軍は略奪行為の最中で、織田の兵はそれにまぎれて本陣を襲撃して義元を倒したとする。根拠は『甲陽軍鑑』の記述。
渡辺文雄氏は、信長は正面作戦と迂回作戦を併用して勝ったと説く。これは、江戸初期成立の『松平記』による。信長が善照寺砦から中嶋砦へ向かうさい、軍を2つにわけたとの記述があるのだ。
これまでとまったく異なる説をとなえるのが小林正信氏である。『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』(里文出版)によると、義元が支配する駿河・遠江・三河はおよそ70万石。信長は尾張のみだが、石高は57~59万石もあり、それほど国力に大きな差がないとする。
しかも『信長公記』の記述は今川対織田合戦の一部に過ぎず、信長は尾張全体に大兵力を展開し、将軍足利義輝と結び、付近の大名も援軍に参じており、すでに義元が討たれる前、今川軍は織田方に包囲殲滅されていたというのだ。
なぜなら信長の重臣である柴田勝家や池田恒興などは『信長公記』に登場しない。彼らは他で戦っており、桶狭間での合戦は信長の護衛隊の活躍場面を描いたものだとするのだ。
まあ、このように研究者によってさまざまな推論が語られている現状だが、いずれにせよ、桶狭間で今川義元はまさかの討ち死にを遂げたのである。
「今川義元が討ち死にした!」という驚くべき一報が、家康のもとに入ってきた。このとき家康は大高城にいたが、もしこれが事実なら、もうすぐ敵の織田軍が殺到してくるはずと危機感を抱いただろう。
家臣たちは口々に「早々にここを引き払うべきです」と言上し、主君・家康の決断を固唾を呑んで見守った。『三河物語』によれば家康は、
「義元が討ち死にしたという情報は、確かなものではない。もし誤報に踊らされて城を退いたら、義元殿にあわせる顔がない。それに城から逃げれば、笑いものになってしまう。そんなことになってまで、命を長らえても仕方がない。だから確たる知らせが届かぬうちは、この場を動かない」
そう断言したのである。
『三河物語』の著者は大久保彦左衛門忠教である。兄の忠世とともに家康に仕えた歴戦の強者で、江戸初期の編纂資料(二次史料)といえど、この話の信憑性は高いと思われる。
もし家康が言葉通りに大高城にそのまま居続けたら、この城で家康も命を落とした可能性が高い。だが、その運命を変えた人物が現れる。
織田方の武将・水野信元であった。家康の母・於大の兄、つまり家康の伯父にあたる人物だ。信元は今川方から織田方に寝返ったが、さすがに甥の窮地を知り、浅井六之助道忠を使者として大高城に派遣し、義元の死を知らせてやったのだ。
これも『三河物語』に載る話だが、このとき信元は次のように六之助に言づてしたという。
「あなたは油断している。義元は討ち死にしたので、信長は明日、そちらへ押し寄せるだろう。今夜のうちに支度をして早々に退きなさい。私が道案内をしよう」
だがこのとき、信元の使いとしてやってきた六之助は、「すぐに信長がやって来たら、道案内など困難になりましょう。300貫をいただけるなら、私が先導いたします」と申し出たのである。
家康の判断は速かった。すぐさまこれを承諾し、六之助に案内させて城から退去したのである。こうして虎口を逃れた家康は、駿府に戻らずに岡崎へ向かった。
松平氏は岡崎城を拠点にしていたが、城には今川方の武将が在番衆として入城していた。そこで家康は遠慮して、松平氏の菩提寺である大樹寺に腰を据えた。
すでに岡崎城にも義元の死は伝わっており、在番衆は敵地(織田領)にほど近いこの城から撤収したいと考えていた。そこで家康の到来を知ると、早々に岡崎城から出て行った。
更新:11月21日 00:05