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「桶狭間の戦い」が徳川家康の運命を分けた? 今川義元の討死のその後

河合敦(歴史研究家)

 

大名として独立を宣言

すると家康は「捨城ナラバ広(拾)ハン」(坪井九馬三・日下寛校訂『文科大学史誌叢書 三河物語(中)』)と述べ、久しぶりに父祖の居城に入ったのである。

『三河物語』はこの後、6歳のときにこの城を出て、13年ぶりに入城した主君家康を見て家臣たちが大いに喜んだことを書き、続けて「駿河(今川)ト御手切ヲ被成候えテ、元康ヲ帰(替)サせラレ而、家康にナラせラレ給ふ」とある(カッコ内は筆者による)。つまり、今川氏から離れて、名も元康から家康に変え、大名として独立を宣言したというのである。

ただ、近年の研究によれば、ことはそう単純ではなかったらしい。

研究者の本多隆成氏がそのあたりの研究概要(『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館)をまとめている。

それによると、その後も家康は今川方として織田方の水野氏と戦っており、おそらく岡崎城への帰還は今川氏真(義元の子で当主)も了解済みで、むしろ桶狭間の敗軍で混乱する三河国境の動揺を防ぐため、氏真が家康に岡崎城入りを命じたとする。

どこまで家康が積極的に今川方として動いていたか諸説あるものの、少なくとも永禄3年(1560)中は氏真と敵対していないことは確実のようだ。

さらに本多氏は、翌永禄4年(1561)早々に室町幕府の13代将軍足利義輝に名馬を贈ったことを例にあげ、家康の「将軍への直臣化、自立への意欲を感じさせる」(前掲書)と指摘している。

こうした準備の上で、家康が明確に今川氏から離反するのは同年4月のことであった。家康は、今川方の三河国牛久保に兵を入れたのである。これについて今川氏真は、家康が「敵対」したとか「逆心」だと記しており、完全に両者の関係が決裂したことがわかる。

以後、家康は積極的に西三河の平定を進めていき、翌年になると、さらに東三河へも侵攻を始め、三河一国の支配を目指すようになった。

6歳から人質となり、尾張の織田氏を経て今川氏に駿府で育てられ、元服後も領国に戻ることを許されなかった家康。しかも一門扱いではあったが、今川の属将として戦うことを余儀なくされてきた。だが、桶狭間合戦におけるまさかの義元の落命によって、その運命は大きく変わった。

その後、今川の属将として生き続ける道もあったが、あえて独立大名への道を選んだことで、家康の未来は大きく開けるわけだが、それはまだずっと先のこと。

このあと、今川と対抗するために織田信長と同盟を結んだものの、領内では譜代家臣を含む大規模な一向一揆が勃発、その生存を脅かされることになるのである。

 

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