享保の改革を行ない、名君として知られる徳川吉宗。自らも倹約につとめ、財政再建に辣腕を振るった彼だが、じつは「温泉好き」という意外な素顔があった。吉宗が愛した湯とは?そして、将軍様の温泉好きが全国にもたらした効果とは?
※本稿は『歴史街道』2022年4月号より抜粋・編集したものです。
【風野真知雄(かぜのまちお)PROFILE】昭和26年(1951)、福島県生まれ。立教大学法学部卒。平成5年(1993)に「黒牛と妖怪」で歴史文学賞を受賞してデビュー。「耳袋秘帖」シリーズで歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞を、『沙羅沙羅越え』で中山義秀文学賞を受賞。おもな著書に『お龍のいない夜』、「妻は、くノ一」「わるじい秘剣帖」シリーズ、新シリーズに徳川吉宗を主人公にした「いい湯じゃのう」がある。
江戸時代の15代に及ぶ将軍のなかでも、屈指の名君とされる徳川吉宗。評価の高い仕事をざっと数え上げても──。
新しい人材の抜擢、目安箱の設置、小石川養生所の設立、隅田川や飛鳥山など桜の名所の整備、公事方御定書の制定、新田開発の奨励、上げ米の制、年貢の定免法、借金相対済まし令、などなど。
後のほうの経済対策、農業政策についての異論はさておいて、よく働いた将軍であることは間違いないだろう。
将軍に限らず、人間は一生懸命働けば、疲労の度も増すのである。疲れたときはどうするか。
吉宗の疲労回復術の一つが、温泉だった。
しかも、吉宗が温泉好きだったことが、大名から庶民に至るまで、温泉ブームをもたらし、江戸の湯屋にまで温泉のお湯を運んで来るという新需要まで出現させた。いまなら、さしずめ、総理自らがゴートゥーなんたらの大キャンペーンの音頭を取って、経済の活性化に成功したようなものである。
じつは、徳川家には、温泉好きの血というか、温泉の効能に対する信仰が、脈々と伝えられた形跡がある。
まずは初代家康が、温泉をことのほか愛した。が、若いうちからではない。愛そうにも、当初の地元である三河あたりには温泉そのものが開発されていなかったのである。
やがて家康は、苦労の末に三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ケ国を領するようになる。ついに温泉が豊富な甲斐と信濃をわがものにするが、当時、家康が"武田信玄の隠し湯"に嬉々として入ったとかいう史料は、なかなか見つからない。豊臣秀吉が有馬温泉を愛したことは当然知っていただろうから、家康も負けじと、梅ケ島温泉や湯村温泉あたりは入っていたとしても不思議はない。
だが、天正18年(1590)、豊臣秀吉によって関東に移封された。このとき、家康はついに名湯熱海温泉と出会ったのである。歳もちょうど50間近。温泉の心地良さが骨身に染みる年ごろではないか。
史料では、慶長2年(1597)3月に、わずかな家臣と共に熱海に逗留したと、「熱海温泉由来記」にある。この時はどうも、偽名を使い、返送までしたというから、まだ存命だった秀吉をはばかったのだろうか。
関ケ原の戦いに勝利し、天下をわがものにした後の慶長9年(1604)3月には、正々堂々と熱海を訪れ、7日間に及ぶ湯治を楽しんだ。いまも、湯治は7日間が基本とされるが、これはかなり前からの風習で、家康もそれに従ったらしい。
熱海の人々も家康のため、わざわざ御殿まで建てて歓迎した。この御殿はすぐに取り壊されるが、ここに本陣ができ、大名の湯治に利用されるようになった。
また、このとき家康は、3歳だった十男頼宣を伴っていた。この頼宣が、後に紀州藩主となってから、吉宗も浸かったはずの龍神温泉を開発している。