三代将軍家光もまた、熱海の湯に憧れ、ここに別荘までつくった。ただ、家光自身が訪れる機会はなかったらしく、側室に利用させるだけだった。
寛文2年(1662)には、いよいよ熱海の献上湯が始まった。樽に湯を詰めて、江戸城の将軍の元に届けるのである。このときの将軍は、4代将軍家綱だった。
だが、なんといっても温泉が大好きだったのは、八代将軍吉宗である。出身地である紀州がまた、湯の峰、湯川、白浜といった古くからの名湯に恵まれている。しかも、藩祖頼宣が開発した美人の湯で名高い龍神温泉まである。吉宗が藩主になったのは22歳、将軍は33歳のときで、若かりしころに藩内の名湯を楽しんだことは、想像に難くない。
そして、将軍となり、尊敬する神君家康が愛した熱海の湯の存在を知る。
ただし、吉宗が熱海の湯をことのほか愛したことは間違いないが、選択肢はそう多いわけではなかった。当時はもちろん、いまのような掘削技術はないから、自噴温泉しかない。
となると、江戸近郊では箱根がいちばん近く、湯河原、伊豆山、そして熱海。甲斐方面に増富、湯村。北に伊香保、四万、草津。東北の那須湯本、塩原……だいたいこんなものなのである。交通の便が悪いから、いかに将軍といえども、雲仙(肥前)だの日奈久(肥後)だのといった遠方にある温泉に行くのは、まず不可能だった。
吉宗が熱海温泉を愛したというのが、なぜわかるかというと、献上湯の史料が残っているからである。
熱海の献上湯はすでに始まっていたが、吉宗の代である享保11年(1726)から俄然、回数が多くなり、それから9年間のあいだに、なんと3643樽もの熱海の湯が運ばれている。
樽といっても、それはそのまま湯舟として入ることができるくらい大きなものである。それが9年間で3643樽だから、毎日、熱海の湯に浸かっていたのではないか。
享保11年には、草津温泉からも献上湯が届けられたという記録がある。また、箱根温泉でも正保元年(1644)から献上湯が始まっているので、吉宗にも当然、箱根の湯は届いたはずである。
だが、草津や箱根から頻繁に江戸城に湯が届けられたという記録はない。なにゆえに、吉宗はそれほど熱海の湯を愛したのだろうか。
熱海の湯は、島国日本ではおなじみの塩化物泉である。効能として保温効果が高く、よく温まるとされる。
箱根の場合、場所によって泉質は異なり、山崩れなどで当時と地形も変わったりしているが、献上湯はおそらくアルカリ性単純温泉だったのではないか。癖がなく、療養によく、美肌効果も高いとされる。
そして草津温泉が、強烈な匂いを漂わせる強酸性硫黄泉。殺菌作用に優れ、慢性胃腸病にもいいという。
もしも吉宗が、熱海の湯が肌に合ったとすると、中年以降になって冷え性を自覚することがあったのだろうか。
もちろん、吉宗が尊敬した神君家康が、熱海の湯を愛したという話は、当然聞かされていただろうから、家康に倣ってという気持ちもあっただろう。
さらに湯温が関係したことも考えられる。箱根や草津の湯の温度は、だいたい50から60度ほどだが、熱海の源泉はほとんど100度。沸騰しているのだ。それを1樽10人がかりで、もの凄い速さで江戸まで駆けて来たというから、夏などは熱い湯に浸かれたかもしれない。
そのまま樽に浸かったりしたら、
「いい湯じゃのう」
という吉宗の声が聞こえてきそうである。
なお、運搬はのちに海上輸送になり、一度に30樽も運ばれるようになったというが、初がつおでも知られるように江戸の舟の速さはかなりのもので、陸上より早く到達することもあったのではないか。ちなみに、輸送費は30樽で3両(およそ30数万円)。1樽10人の人件費を考えると安過ぎる。将軍さまへのサービス込みの気がする。
吉宗にしょっちゅう熱海の湯が届けられているのは、当然、江戸っ子たちも目撃している。上さまがそこまで気に入っているなら、よほど効能があるのだろうと、これを江戸の湯屋も仕入れるようになった。かくして、巷の湯屋に、「将軍家御用達」の湯が運ばれるようになった。
こちらの輸送費も1樽5匁(およそ1万円)。とすると、輸送費はほとんど同じということになるが、江戸の湯屋では当然、これに水をたっぷり足して沸かしていた。
熱海はまた、湯治客を迎える体制づくりも怠らなかった。大名が泊まれる本陣はもちろん、離れという建築様式を採用し、客に贅沢な気分を味わわせた。また、熱海十景なる景勝地を告知し、鯛網を見せるというイベントまで始めていた。観光産業としての町づくりが進んだのである。
これらは当然、箱根や草津など、全国の温泉地にも普及した。まさに、観光立国というインフラが、吉宗の時代に始まるのだ。冒頭に吉宗の業績を数え上げたが、じつはいちばんの実績は、これだったかも……。
更新:11月24日 00:05