花見といえば、まず桜が思い浮かぶが、桜の花見が主流となったのは、実は江戸時代。では、それ以前は何の花を愛でていたのだろうか。古くから日本で親しまれてきた、花見の歴史を紹介しよう。
※本稿は、『歴史街道』2021年4月号から一部抜粋・編集したものです。
現在は花見というと桜の花が真っ先に思い浮かぶが、江戸中期までは梅の花見(梅見)が主流であった。
そもそも花見は奈良時代に中国から伝来した風習だが、当時の中国は唐王朝である。この時期は遣唐使が派遣されるなど、日本史のなかでもとりわけ中国の影響が強い時代だが、まずは朝廷の行事として取り入れられた。
当初の花見は梅の花を愛でる行事だったが、平安時代に入ると桜の花見もはじまる。
弘仁3年(812)、嵯峨天皇が御所近くの神泉苑で「花宴之節」を催したが、これが桜の花見の最初とされる。これを契機に、桜の花見も天皇主催の行事として定着していく。
梅、そして桜の花見は、朝廷を構成する貴族社会を発信源として社会に伝播していったが、やがて武士たちの間でも花見が広まる。
豊臣秀吉が晩年に催した「醍醐の花見」などは、その壮大さが後世まで喧伝される大イベントとなった。秀吉は京都の醍醐寺三宝院内に700本もの桜を植樹させ、正室の北政所や側室の淀殿たちと花見を大いに楽しんだ。
泰平の世の江戸時代に入ると、花見は大衆化する。貴族や武家、上層町人に限られていた花見を、裏長屋住まいの江戸っ子たちまでもが楽しむようになったからである。
さらには、梅や桜だけでなく躑躅や菊の花見も楽しむなど、季節ごとの花を愛でるようになったことで、「梅に始まり菊に終わる」というフレーズも生まれた。花見の多様化だ。ここに、初春の梅見にはじまり、秋の菊見で一年が終わるという習慣が定着する。
更新:11月22日 00:05