2019年03月22日 公開
2023年01月30日 更新
「江戸は町民が主役!」と言うけれど、実は江戸の面積の7割は武家地で、さらにその大半を、参勤交代で全国から集まる殿様と家臣の大名屋敷が占めていた。そんな大名屋敷と殿様の生活に迫ります。
※本稿は、安藤優一郎著『大名屋敷「謎」の生活』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
加賀藩の本郷上屋敷に象徴されるように、将軍御成は大名屋敷内に庭園が造成されるきっかけとなったが、将軍だけが大名屋敷を訪れたのではない。というよりも、同僚の大名が訪問することのほうがはるかに多かったが、その際に庭園は大いに活用される。
江戸藩邸の庭園を、他家の大名が訪れた記録は数多く残されている。庭園で饗応することが、江戸の大名社会では必須の社交活動と受けとめられていたからである。お殿様自ら庭園を活用しながら、「おもてなし」に励んだ。
江戸藩邸を訪れた者は、将軍や大名ばかりではない。幕臣も訪れているが、紀州徳川家の殿様が幕臣(旗本)相手に“ホスト役”を勤めた貴重な事例を以下紹介していこう。
紀州藩の上屋敷は麴町にあったが、殿様が住んでいたのは赤坂の中屋敷のほうだった。紀州藩は、麴町上屋敷と赤坂中屋敷を藩主の住居として併用していたが、文政6年(1823)の火事で麴町屋敷が焼失したことを機に、赤坂中屋敷が上屋敷としての機能を果たすようになる。殿様が常住したのだ。
赤坂屋敷には、尾張藩戸と山下屋敷の戸山荘、水戸藩小石川上屋敷の後楽園と並び称された「西園」という庭園があった。この西園も、将軍や大名を接待する場として大いに活用されている。
この時期、西園の整備が大いに進む。文政10年(1827)9月に11代将軍・家斉が赤坂屋敷への御成を行ったが、その準備過程で整備が進んだのである。
当時の藩主は徳川斉順(なりゆき)で、家斉の七男だ。最初は徳川御三卿の一つ清水徳川家に養子に入ったが、文政7年(1824)に第11代紀州藩主となる。麴町屋敷が焼失した翌年にあたる。
斉順が紀州家を継いだのを受けて、父の家斉が赤坂屋敷に御成となったのだろう。ちなみに、この斉順の子が14代将軍となる家茂である。
西園には数多くの見所があるが、その一つに「長生村」というスポットがあった。この村に入ると、本当の村に居るかのような錯覚に陥ったという。そこにある古井戸の水を飲むと長寿になる、という言い伝えから長生村と命名されたらしい。
西園では、殿様自らホスト役を勤めることがあった。日々堅苦しい生活を送っている殿様にとっても、これは楽しみだったようだ。
赤坂屋敷内の西園の訪問記を著した人物がいる。当時、清水徳川家の御広敷御用人を勤めていた村尾正靖だ。
年次は不明だが、正靖は斉順の招待を受けて西園を訪れている。季節は春だった。
御広敷御用人とは、御殿の奥向きの御用を勤める者のことである。正靖は清水家当主時代の斉順と接触があったらしい。招待を受けたのは正靖たち10人ほどである。
お昼前に赤坂屋敷に入った正靖たちは、まず御殿に入っている。御殿でお昼(一汁三菜)を頂戴した後、未の刻(午後2時)近くに斉順の御前へ召し出された。斉順に拝謁した後、庭園内を回遊したが、その景勝に感嘆する。
正靖たちは、庭内の見所の一つ長生村に入っていった。村といっても、農民は一人もいなかった。しかし、農家に入って見ると、今まで誰かが居たかのような雰囲気があった。そこで、正靖が以下のような光景を目にする。
囲炉裏では薬缶の湯がたぎり、串に刺された川エビや小魚があぶられていた。焼き豆腐、芋、大根などが鍋で煮られたまま残されていた。その横には、包丁やまな板などが置いてあった。「農民の生活感」が滲み出ている空間だが、紀州藩の演出である。
土間の入口を見ると、大根、タケノコ、ゴボウ、ふき、ワラビなどが入った荷籠が、明日の出荷に備えて置かれていた。農家のなりわいの様子も再現されている。家の前の畑には、菜の花や春菊の花が咲き、芋も植えられていた。
長生村を出た正靖たちは、鳳鳴閣という茶亭に向かう。そこで、斉順が待っていたのだ。
正靖たち招待客は、毛氈が敷かれた板縁に着座した。この茶亭で、斉順をホストとする酒肴の席がはじまる。
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