2019年03月07日 公開
2023年01月30日 更新
旧加賀藩本郷上屋敷の庭園(育徳園)に造られた心字池。現在は「三四郎池」とも呼ばれる
「江戸は町民が主役!」と言うけれど、実は江戸の面積の7割は武家地で、さらにその大半を、参勤交代で全国から集まる殿様と家臣の大名屋敷が占めていた。そんな大名屋敷と殿様の生活に迫ります。
※本稿は、安藤優一郎著「大名屋敷「謎」の生活』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
江戸在府中、幕府の役職に就いていない諸大名は江戸城に登城して将軍に拝謁したり、城内で執り行われる儀式に参列することが公務だったが、それ以外の日は藩邸内にいることが多かった。外出することは少なかったが、藩邸内でも大切な仕事があった。
将軍や同僚の大名たちを「おもてなし」することである。大名が集住する江戸は将軍や大名たちの社交空間としての顔を持っていたが、その舞台こそ江戸藩邸であり、邸内に造成された"巨大な庭園"なのである。将軍を接待するとなれば、それは幕府に対する大切な公務にもなった。
江戸時代の初め、将軍は諸大名に下賜した屋敷のうち、上屋敷を毎年のように訪問している。江戸城に住む将軍が城外に出ることを「御成」と呼んだが、御成先としては前田家や島津家をはじめ、有力外様大名の屋敷が多かったのが特徴である。
将軍の大名屋敷御成は2代将軍・徳川秀忠の時にはじまるが、将軍が江戸藩邸を訪問した理由とはいったい何か。
徳川家が将軍つまり武家の棟梁として諸大名を服従させていたとはいえ、秀忠の頃はいまだ戦国の余風冷めやらぬ時期である。かつては豊臣家に臣下の礼を取っていたという点では、徳川家と外様大名は同列だった。
外様大名が臣下であることを、天下に改めて示すため企画されたのが、将軍の大名屋敷御成という“政治的イベント”なのである。
秀忠の御成は、合わせて29回を数えた。家康から将軍職を譲られた慶長10年(1605)5月に、姫路藩主の池田輝政邸を訪問したのが最初だが、以下、同15年(1610)に執り行われた米沢藩主の上杉景勝邸への御成を見ていこう。
上杉謙信を養父に持つ景勝は、10年前の関ヶ原の戦いで家康と敵対した。関ヶ原で石田三成が敗北すると家康に謝罪し、会津120万石から米沢30万石に減封となる。
上杉家は徳川家に服属を誓ったが、豊臣政権下では同じ五大老として同格であり、徳川家としては、「臣下」であることを目に見える形で天下に知らしめたい大名の一人だった。その手段として、上杉邸への御成を執り行ったのである。
この年の5月6日に、秀忠の補佐役として権勢を誇った本多正信が、上杉邸に赴いた。秀忠が御成する旨を伝えるためだ。
正信は家康の信任の厚い人物だが、上杉家に太いパイプを持っていた。正信の次男政重が、景勝の家老・直江兼続の婿養子の時期があった程の間柄である。
関ヶ原の戦いで上杉家は家康と敵対した。本来ならば改易される危険性も高かったが、米沢30万石への減封で済んだのは正信の奔走が背景にあった。
以後、上杉家は正信との関係を強化することで家の保全をはかるが、その過程で兼続は政重を婿養子とする。後に兼続と政重の養子縁組は解消されるが、兼続つまり上杉家と正信の関係は引き続き良好だった。
翌7日、景勝は江戸城に登城し、御成をお受けすると秀忠に言上した。その後、正信の指揮のもと、御成御殿や御成門の建設が進む。
御成御殿とは、将軍を接待するための特別の建物である。その折には、御殿に付属した庭園も造成されたはずだ。御成門とは「将軍が御成する時だけ」開かれる門。約半年後の12月18日に、御成御殿や御成門が落成したというから、まさに突貫工事だった。
秀忠が上杉邸を訪れたのは、12月25日のこと。御成御殿では、景勝から太刀、脇差、馬などが献上された。将軍への服従を意味する貢物だ。
秀忠と景勝の間では、盃も交わされた。つまり献酬だが、まさしく主従の固めの盃である。景勝の子の玉丸も、秀忠から盃を賜り、千徳と改名するよう命じられた。
その後、饗応の膳部が出され、併せて能が興行された。能が終わると、茶会が執り行われた。茶会終了後、改めて饗応の膳部が出されている。
翌26日、景勝は改名した千徳とともに、昨日の御成への御礼を言上するため、江戸城に登城した。27日には同僚の大名を招き、将軍御成を受けたお祝いの饗宴を開いている。これをもって、御成の行事は完了する。
こうして、秀忠と上杉景勝の主従関係は天下に明示された。ほかの外様大名への御成でも、同様の儀式が執り行われただろう。主に外様大名の江戸藩邸への御成が繰り返されることで、徳川将軍家の権力基盤は強固なものになっていくのである。
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更新:11月23日 00:05