2019年03月07日 公開
2023年01月30日 更新
秀忠の後を継いで将軍となった3代家光も、大名屋敷への御成を継続する。
寛永6年(1629)4月26日に加賀藩前田家の本郷上屋敷、翌7年(1630)4月18日には薩摩藩島津家の桜田上屋敷を訪れている。
前田家、島津家など、トップクラスの外様大名との主従関係を明示することで、将軍の権力基盤をさらに磐石なものにしようとはかったのだ。
しかし、将軍を江戸屋敷に迎えることは、当の大名にたいへんな負担を強いるものであった。御成御殿や御成門の建設、そして庭園の造成となれば、かなりの時間、費用を要したのは言うまでもない。
寛永6年4月に家光を迎えた加賀藩では、同3年(1626)から御成の準備に取り掛かり、現在は東京大学のキャンパスである本郷屋敷内に御成御殿を建設した。殿舎のみならず庭園(育徳園)も造成されるという大規模な土木工事であり、完成まで約3年を要した。
この時、将軍を迎えるため造られた庭園中央部に広がる池(心字池)こそ、夏目漱石『三四郎』の舞台となる三四郎池である。
諸大名は将軍御成に際し、将軍を招くにふさわしい御殿の造成を幕府から求められた。「将軍への敬意を示すように」というわけだが、紀州藩赤坂屋敷内の「西園」に象徴されるように、さらなる庭園整備が進む原動力にもなった。
寛永7年に家光を迎えた薩摩藩でも、御成の2年前から御成御殿や御成門の建設がはじまっている。広間・御成書院・数寄屋(茶室)・能舞台・楽屋・料理所など、御殿の規模は計700坪を下らなかった。天井や壁は、狩野休伯・内膳など幕府の御用絵師が腕を奮った。御成門は檜皮葺で、彫り物も各所にちりばめられた。豪華絢爛な御殿の様子が浮かび上がってくるが、莫大な出費を要したことも想像するにたやすい。
諸大名が将軍のおもてなしに要した費用だが、元禄15年(1702)4月26日に、5代将軍・綱吉が加賀藩本郷屋敷を訪れた時の数字が残されている。その時の経費は、総額で29万8千両。朝夕で7千人分以上の膳部が用意されており、将軍に随行してきた家臣の数も数千人に及んでいたことが分かる。
御成に伴う出費が、加賀藩の財政に深刻な影響を与えることは避けられなかった。そうした事情は将軍を接待したすべての大名にあてはまるのである。
「将軍御成」という行事は諸大名に深刻な財政負担を強いたが、家光の頃になると御成先に変化が見られはじめる。
家光の代には将軍の権威も確固たるものになり、諸大名との緊張関係もゆるんできたからだ。幕府としては、将軍御成を頻繁に執り行わずとも済むようになる。つまり御成までして主従関係を確認する必要もなくなり、外様大名への御成の数は激減した。莫大な負担を強いられる、外様大名への配慮もあったかもしれない。
しかし、御成自体の数が減ったわけではない。その数はむしろ増えており、家光の大名屋敷御成の回数は約300回にも及んだ。
といっても、御成先の大半は寵臣の譜代大名の屋敷だった。ダントツの御成先は小浜藩主・酒井忠勝邸であり、100回以上にのぼる。次いで、家光に殉死したことで知られる堀田正盛邸(77回)、家光の剣術の師・柳生宗矩邸(32回)の順である。
外様大名の屋敷を訪問した時のように、贅の限りをつくしたおもてなしを受けるのではなかった。自ら相撲や乗馬などを楽しみ、また花火や踊りを見物するなど、江戸城内では味わえない楽しみに浸ったのだ。
御成と言っても正式の御成ではなく、鷹狩りのため城外に出た際に立ち寄るという形が取られた。午後になって立ち寄る事例も多く、滞在時間も短かった。約300回の御成の大半がそんなスタイルだった。
幕府権力の安定化に伴って、政治的な意図が込められていた「将軍御成」は主従の固めの場から"娯楽の場"へと、その性格を変化させる。江戸の大名屋敷は、江戸城内で堅苦しい生活を強いられた将軍が無聊を慰める場となっていくのである。
更新:11月23日 00:05