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将軍・徳川吉宗がプロデューサーだった!? 知ってるようで知らない「お花見の日本史」

2021年03月25日 公開
2023年01月30日 更新

安藤優一郎(歴史家/文学博士)

徳川吉宗

花見をプロデュースした将軍吉宗

江戸時代はそんな花見の文化が花開いた時代だが、そこで八代将軍徳川吉宗が果たした役割は大きかった。隅田川堤や飛鳥山など、桜の名所の生みの親だからである。

吉宗が将軍の座に就いた頃、桜の花見の季節になると江戸っ子は、現在上野公園となっている寛永寺の境内に繰り出すのが定番だった。

現代も花見の時期になると、公園内は花見客でいっぱいとなるが、花見となれば飲食が付き物である。酒が入ると、その勢いも手伝って、度が過ぎてしまうことも少なくなかった。

将軍の墓所も置かれた寛永寺境内での騒ぎは、幕府にとって頭の痛い問題であったが、吉宗は一計を案じる。遊楽地が乏しいことに原因があるとして、江戸の町に桜の名所を作ろうと思い立つ。

享保2年(1717)から、江戸東郊の隅田川縁(墨堤)への桜の植樹を開始し、同5年(1720)からは、江戸北郊の飛鳥山にも桜を植樹しはじめた。以後、江戸っ子は隅田川縁や飛鳥山に繰り出し、心ゆくまま花見そして飲食を楽しむようになるが、隅田川縁では副産物のような形で、長命寺桜餅という名物まで生まれた。

隅田川縁の長命寺で門番をしていた者が、桜の落ち葉を塩漬けにし、その葉で餡入りの餅を挟んで販売したのがはじまりだった。

『南総里見八犬伝』の著書で知られる曲亭馬琴によれば、文政7年(1824)には塩漬けされた桜の葉が77万5000枚にも及んだ。

当時は餅一つを桜の葉2枚で挟んだことから、年間38万7500個の桜餅が製造されたことになる。今も人気の長命寺桜餅は、江戸の花見文化から生まれた食べ物であった。

飛鳥山の場合は、元文2年(1737)2月に、吉宗が家臣を連れて酒宴を催している。将軍自ら範を垂れ、飛鳥山での花見を推奨したのだ。花を愛でるだけでなく、その際の飲食も勧めたことが窺えるが、翌年には花見客が飲食を楽しめるよう、水茶屋54か所の設置を許可する。

その結果、飛鳥山は桜の名所として賑わいに拍車が掛かり、観光地化が進展した。後には、高級な料理茶屋も山麓に立ち並ぶほどになる。

ちなみに、吉宗の頃の桜はサトザクラ、キクザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンであった。現在、最も植栽されているソメイヨシノは、幕末に入ってから登場した品種である。

*      *   *

明治に入ると、桜の花見は観桜会という名のもと、天皇や皇后が臨幸する行事としても注目される。明治14年(1881)、旧江戸城である皇居内の吹上御苑に、内外の賓客が招待されて花見を楽しんだのが最初で、その後、会場は浜離宮、新宿御苑と変遷した。

戦時中は中止されたが、戦後に春の園遊会として復活し、現在では春の風物詩となった。桜の花見に箔が付き、その賑わいに大きく貢献していく。

花見の日本史を辿ると、現在もみられる光景が随所で顔を覗かせているのである。

 

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