近年、観光客が増加し、改めて注目を集めている、温泉地・熱海。しかし、明治・大正時代には、多くの人々にとっての「憧れの旅行先」だったことは、今ではあまり語られていない。時を超えて、人々を惹きつけている熱海の魅力とは。
「憧れの旅行先」といえば、皆さん、どこを思い浮かべるでしょうか。
国内外に多くの魅力的な観光地がありますが、リゾート気分を楽しみたいという方は、ハワイなどを挙げるかもしれません。とはいえ、それも交通の便が発達した現代でのこと。もしも、明治・大正時代の人々に同じ質問をしたならば、
――熱海
という答えが返ってきたはずです。
熱海といえば、昭和の頃は新婚旅行や社員旅行先の定番であり、近年も、若者を含めて多くの観光客で賑わう、日本有数の温泉地です。しかし時代を遡れば、現在のハワイのように、人々がまさしく憧れていた地でした。
なぜ、明治・大正時代、人々は熱海を特別視したのか。歴史をひも解けば、理由が見えてきます。
温泉地の中の温泉地――。
私は、熱海はそう呼ぶに相応しいと考えていますが、それは地名の由来からも見て取れます。
伝承によれば、「炎熱地獄」(『地蔵菩薩霊験記』)と称されたほど、熱海地域には古来、海辺に熱泉が湧いていたといいます。とはいえ、随分と水の温度が高く、滾るような熱泉だったようです。
こうした背景から、熱海地域は「熱水」「熱海」などを意味する「あたみ」と呼ばれるようになりました。これは九州随一の温泉地である別府も同様でしたが、熱海地域の温泉資源の豊かさが地名にも表われています。
熱海地域は、同じ読み方で平安時代には「直見」と名づけられ、鎌倉時代になると、現在と同様の「熱海」という漢字があてられます。
ちなみに、人々が温泉を利用するために訪れ始めたのも、この頃からです。
やがて江戸時代に入ると、いわば「熱海ブランド」が確立します。江戸期で温泉紀行の本が最も多く刊行された温泉地は、熱海(30冊)と有馬でした。
背景には、「神君」の存在がありました。江戸幕府を開いた徳川家康は、関ケ原合戦の3年前、初めて熱海を訪れています。以降、徳川家と熱海は深い関係であり続け、3代将軍の家光などは、熱海湯治を計画して御殿までつくらせています。
そんな「将軍ご愛用の湯」にあずかろうと、加賀藩主や仙台藩主をはじめ、江戸詰の大名もこぞって湯治に出かけ、見晴らしの良い豪華な造りの本陣宿に滞在しています。ただ、庶民はよほど裕福で時間のゆとりがなければ、行けませんでした。
そこで、繁盛したビジネスが、熱海の源泉を湯樽で江戸まで運び、湯屋で憧れの「薬湯(やくゆ)」として庶民も利用する、というものでした。
熱海の温泉は塩分をたっぷり含んでいますので、保温効果が抜群で、薬湯としての効果は絶大。加えて、一度冷めて沸かし直しても、成分は変わりません。熱海は、昔から湯の質も「温泉地の中の温泉地」であり、そんな熱海の湯を人々はこぞって求めたのです。
更新:11月21日 00:05