熱海ホテル。熱海には昔から、多くの別荘や旅館、ホテルが建っていた(写真:熱海市)
一般市民に目を移すと、明治初期は、熱海に行ける環境が整っていたとは、交通の不便さから、まだ言えませんでした。
明治13年(1880)、熱海街道が修繕され、それまでは小田原から駕籠で半日かかった熱海が、人力車を用いて5時間程度で行けるようになりました。東京を朝発ったとすると、その日中に、ようやく到着できます。
そして明治29年(1896)、豆相(ずそう)人車鉄道が全通し、列車で熱海に行けるようになりました。とはいえ、それでもまだ時間も費用もかかるため、気軽に行ける場所ではありません。
当初は、遊楽地としてよりも、「湯治のために熱海に行きたい」と考える人々が多かったようです。江戸時代が終わり、「神君ゆかりの湯」という認識も薄れ、その温泉の質に注目が集まっていたのでしょう。
しかし、やがて人々は熱海という場所そのものに、憧れの眼差しを向けます。それを呼び起こしたのが、多くの文豪が訪れ、この地を題材にした作品を発表したことです。
最も有名なのが、尾崎紅葉でしょう。明治22年(1889)正月に初めて熱海を訪れ、その魅力にとりつかれた尾崎は、明治30年(1897)より、読売新聞紙上で小説『金色夜叉』を連載し始めました。
高等中学生の間貫一が、許嫁のお宮を資産家に奪われるというストーリーですが、熱海の海岸での別れの場面は有名で、大ベストセラーに。熱海の名を全国津々浦々まで知らしめました。
今も「熱海の友」と呼ばれ、地元で愛されているのが、坪内逍遥です。熱海をこよなく愛した坪内は、明治12年(1879)に初めて熱海を訪れると、大正4年(1915)、3000冊を超える蔵書を寄贈して熱海町立図書館(現在の市立図書館)の創立に寄与。その5年後には「双柿舎」を建てて永住しています。
熱海にゆかりのある文豪を挙げれば、キリがありません。谷崎潤一郎や志賀直哉、吉川英治が別荘を建て、島崎藤村は『熱海土産』を、芥川龍之介は軽便鉄道工事を舞台に『トロッコ』を執筆。また、先に紹介した起雲閣は、皆さんもご存知の『走れメロス』『人間失格』を、太宰治が生み出した場所でもあります。
それにしても、なぜ、名だたる文豪たちが熱海を愛したのか。それは、熱海には素晴らしい湯と歴史があるということはもちろんのこと、土地柄そのものに大きな魅力があるからでしょう。
温泉大国に住む日本人は意外と気づいていないのですが、山と海――。その両方に温泉地が臨んでいて、海岸にも温泉が湧いているのは、世界広しといえども稀で、日本ならではのことです。熱海のように、海岸リゾートと温泉リゾートを一緒に楽しめるのは、海外から見れば夢のような話です。
加えて、熱海を訪れれば、見事な景観が待ち構えています。美しい海や木々はもちろんのこと、温暖な気候ゆえに、季節の花を一年中、楽しむことができます。三方を山に囲まれて海に面している熱海は、町そのものがあたかもギリシアやローマの「野外劇場」のように私には思えます。
明治から大正の人々は、文豪たちの存在や作品などから、そんな熱海の魅力を知ったのです。
その後、昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通、東海道線が熱海経由となったことで、熱海への利用客は激増しました。以降、熱海は「憧れの温泉地」から、「気軽に訪れられる大衆温泉地」へと変貌を遂げました。
しかし、起雲閣や熱海梅園に代表されるように、明治・大正期の面影には、今も出会うことができます。何よりも、豊かな自然や海、素晴らしい湯は、明治の元勲や尾崎、坪内、太宰らが味わい、人々が憧れたままです。温泉を愛する一人として、機会があれば、多くの方に熱海を訪ねてほしいと願わずにはいられません。
それに関連して、昨年に熱海市制施行80周年を記念して、熱海市が刊行した『熱海温泉誌』は、オールカラー版で熱海の歴史文化・芸能や街並み、ゆかりの人物のエピソードや情報が満載です。熱海市は同書の刊行や、今年2月中旬には「温シェルジェ&温泉観光士養成講座」を開催するなど、温泉をキーワードに観光活性化をはかっています。そんな今だからこそ、熱海の歴史の魅力を再発見してみてはいかがでしょうか。
昨年、市制80周年を記念して刊行された『熱海温泉誌』。筆者が監修・編集委員長を務めた
《『歴史街道』2018年2月号より》
更新:11月22日 00:05