「豆州熱海温泉一覧」。明治14年(1881)発行で、往時の熱海温泉街の様子が描かれている(熱海市立図書館蔵)
熱海は、明治・大正時代、さらなる輝きを放ちます。維新後には、明治新政府要人たちの慰安・避寒保養地として人気を呼び、特に明治10年(1877)、西郷隆盛が起こした西南戦争が終結すると安堵感が広がり、政府の面々は熱海に足を運びました。
明治を代表するジャーナリスト・徳富蘇峰は、「熱海たより」に「鬼より恐ろしき西郷が首を打ち斬り、今は天下に誰れ一人憚るものなく……大いびきで安眠する様に相成り……」と記しました。『熱海市史』にも、「熱海の地が維新功臣の遊楽地として発達」との記述があります。
ただし、新政府の元勲や高官は、「遊楽」以外でも熱海を活用していました。
明治14年(1881)、伊藤博文、黒田清隆、大隈重信、井上馨らは、立憲政治や明治憲法について話し合う「熱海会談」を開いています。同年には、伊藤、黒田、大隈、井上に加えて、山県有朋、五代友厚が北海道開拓などに関して議論しており、熱海は新政府の要人の重要な会談場所でした。
また、明治20年代以降から大正時代にかけては、セレブによる別荘ブームが起きました。元広島藩主や元佐賀藩主などの家族が、続々と別荘を所有。実は現在の熱海には別荘の名建築が多いのですが、公開されているのは僅か。代表例は、大正時代の旧根津家別邸・起雲閣でしょう。
なお、熱海のシンボルのひとつである熱海梅園が造成されたのも、同時期のこと。現在の熱海の原型ができたのが、明治から大正にかけてだったのです。
更新:11月24日 00:05