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鎌倉幕府を滅ぼした「モンゴル帝国の貨幣経済」 宋銭の流入による社会の変動

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授)

鎌倉幕府が北条氏を中心に体制を固めていた13世紀、大陸ではモンゴル帝国が急成長していた。その頂点に立ったのが、チンギス・カンの孫、クビライだ。

クビライは、中国全土を支配下に収めた後、征服によって生じた官僚や軍人をどう処遇するかという難題に直面する。その対応として進められた政策は、日本にも思わぬ影響を与えていく。本稿では、出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、鎌倉幕府を滅亡させた真因について解説する。

※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』(日経BP)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

モンゴル帝国のクビライが官僚と軍人の失業対策に着手

鎌倉幕府の初代執権となった北条時政と2代目の北条義時の親子が力をつけていたころ、大陸では、日本はおろか世界を揺るがす大きな動きが起こっていました。モンゴル帝国の登場です。

1206年、モンゴルの部族長のテムジンが、クリルタイという部族集団の会議で、皇帝に推され、チンギス・カンとなりました。それからわずか20年あまりで、中国北部から今のウズベキスタンのあたりまで広がる大帝国を築きます。1227年にチンギス・カンが没した後、いろいろあった末に、中国周辺を支配することになったのが、その孫の一人のクビライでした。

クビライは、今の北京に大都を建設し、1271年、国号を大元ウルスと改めます。大都は内陸でありながら港があり、運河で外港の天津と結ばれていました。海上交通を強く意識してつくられた都でした。

そのころの中国は、南北に分かれていましたが、1276年、南宋の首都が無血開城され、モンゴル軍の手に落ちます。南宋は滅びました。

その後の処理にクビライの政治力が光ります。

南宋の官僚や軍人は残りましたが、放っておけば、反乱の火種となります。そこで、クビライは大出版事業を始め、南宋の官僚たちに仕事を与えます。しかし、反乱の火種としてより厄介なのが軍人で、こちらにも仕事を与えて、反乱を起こせないようにしなくてはなりません。そこで、周辺諸国と戦争を始めます。日本を攻めたのも、その一環と考えられます。

しかし、不思議なことに、戦争をしている間も、モンゴル帝国と日本の間の貿易量は、むしろ増えていたという話があります。

どういうことでしょうか。

 

クビライの「銀の大循環」政策で、日本にベンチャー起業家が登場

クビライは「銀の大循環」という経済政策を実施しました。中国の大帝国には、昔から周辺諸国が朝貢に訪れます。朝貢に来た使節に、クビライは銀錠という銀の塊を与えました。銀は、当時の世界通貨です。銀錠をもらった人は、それをイスラム商人に貸して、利息を得ます。借りたイスラム商人はというと、お茶や絹、陶磁器など、中国の特産品を買いつけ、それを銀で決済します。結局のところ、銀は中国に還流するわけです。その銀で、中国の人々は税金を支払い、クビライがまた朝貢した人に銀錠を与える。これが、銀の大循環です。

その結果、銅でできていた宋銭が大量に余ります。それが周辺諸国に輸出されるようになりました。日本で最初に宋銭を輸入する大英断を下したのは平清盛でしたが、宋が滅んで、ますます大量に流入するようになりました。そして、日本でも貨幣経済が始まります。

当時の日本は、土地本位制でした。それは、キャッシュがなくても、経済が回るということです。

しかし、宋銭による貨幣経済が始まると、貨幣を使った商売で一旗揚げようという人たちが出てきます。ベンチャー起業家のような人たちが、金融業や製造業、流通業などを立ち上げます。金融業を営んだのが土倉、酒を製造したのが酒屋、流通業や倉庫業を手掛けたのが問丸です。こうした鎌倉時代の起業家たちは、悪党などと呼ばれました。ライブドア事件ではありませんが、ベンチャー起業家は、今も昔も怪しい目で見られがちです。

このような銀の大循環から始まる社会の変動が、やがて鎌倉幕府を滅ぼすこととなりました。

 

交易を求める使者をスパイと誤解して殺した?

海上交通と経済政策を重視したモンゴル帝国は、日本に国書を届けにきます。「おい、つきあおうぜ」と。中国では鉄砲が普及しつつあった時代です。火薬の材料となる硫黄が日本にあったので、興味を持ったのでしょう。

当時の鎌倉幕府は、警察権と軍事権は持つものの、政治や外交は朝廷に任せるスタンスでした。しかし、朝廷にしてみれば、承久の乱で幕府にボコボコにされてから、まだ間もないころです。国防にも関わるので「幕府のご意見は?」と、伺いを立てます。幕府はといえば、御家人の支配にしか興味がなく、「そんなもん、ほっといたらええ」といった感じです。幕府にしてみれば、そもそも管轄が違うと、深く考えなかったのでしょう。

モンゴル帝国は、日本へ攻めこむまでに、実に6回も使節を派遣し、国書を届けようとしています。けれど、返事は一度ももらえませんでした。

その間に、朝鮮半島から、日本宛てに「モンゴルはやがて日本に攻めこむから、連帯して戦おう」という手紙が届きます。さすがに幕府も、まずい空気を感じたのか、御家人に輪番で西国を警護させる制度をつくります。そして1274年、いよいよモンゴル軍が襲来しました。文永の役です。このときは小手調べだったのでしょう。モンゴル軍は、わりとすぐに帰っていきましたが、幕府は今度こそ仰天して、防塁を沿岸に築きます。

最初の襲来の半年後、クビライは7回目の使節を送り、8回目の使節も送ります。これだけ使節を送ったということは、やはり交易がしたかったのだと思います。しかし、幕府は、使節の首を斬ります。おそらく「お前ら、攻めてきたばかりやないか!スパイやろ」ということでしょう。

それで1281年、モンゴル軍が、再度、襲来します。弘安の役です。このとき、モンゴル軍は暴風雨に見舞われました。しかし、それだけで撤退したわけではなく、暴風雨で混乱したところに日本軍の猛攻撃を受け、撤退したというのが、正しいようです。「神風」は、やはり神話でした。

 

モンゴル軍の襲来は鎌倉幕府の力をむしろ強めた

モンゴル軍の襲来で、鎌倉幕府が弱体化したと考えるのは間違いです。むしろ、これを機に、幕府の力は強まりました。

モンゴル軍の襲来は大きな危機で、幕府は、戦闘や防塁の構築に、御家人でない人たちまで動員しました。武士は武士でも、王家や有力貴族、寺社の荘園の武士たちで、非御家人とも呼びます。これらの武士たちを幕府が動員するのは、武家権門が、公家権門や寺家権門に挑戦することになります。ときの8代執権、北条時宗にとっては勇気の要る決断でした。

さらに寺社に対しては、異国降伏の祈祷も命じています。このような、いわば戒厳令をへて、幕府は、御家人の政権から、全国政権に成長します。武家権門が、ほかの2つの権門より抜きん出たわけです。

 

鎌倉幕府が衰退した一番の理由はマネー経済の襲来

鎌倉幕府の力をむしろ強めました。しかし、鎌倉幕府は衰退に向かいます。なぜでしょうか。

いろんな理由がありますが、一番の理由はやっぱりモンゴル帝国にあったと思います。銀の大循環の余波です。モンゴル帝国から襲来したマネー経済(貨幣経済)が幕府の力を弱めました。

最初のモンゴル襲来から遡ること7年前の1267年、幕府が初めて、所領売買の禁止令を出しています。荘園公領制のこの時代、幕府は領地を保証することで、御家人を支配し、農民も支配していました。土地本位制です。
ところが、御家人がついつい自分の土地を売ってしまうので、禁止令を出したわけです。この後、幕府は何度も、土地売買の禁止令を出します。

御家人が土地を売ってしまうのにも、いろいろな理由がありました。例えば、この時代の相続が分割相続だったのも理由の一つです。子どもが多いと相続のたびに土地が小さくなり、それが困窮を招きました。

しかし、一番の原因は、中国から宋銭がどんどん入ってきて、貨幣経済が始まったことだと思います。土地ではなく、貨幣ベースの世界を生きるベンチャー起業家のような人たちが登場してきて、悪党と呼ばれたのでしたね。新しく力をつけてきた、この人たちを、幕府はうまく統治できません。なぜなら、土地本位制だからです。

1297年、幕府は、永仁の徳政令を出します。要するに「これまでの土地の取引はチャラにするで」という宣言です。土地を売ったり、質に入れたりして、土地を失った御家人たちを救おうとしたのです。しかし、マネー経済に突き進む奔流は止められません。時代の奔流に抗うように、土地本位制にしがみついてしまったことが、鎌倉幕府滅亡の一番の原因だと思います。

 

プロフィール

出口治明(でぐち・はるあき)

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、72年、日本生命保険相互会社に入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当したのち、大蔵省を担当して金融制度改革に取り組む。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て06年に退職。同年、ライフネット企画〔株〕を設立し、代表取締役社長に就任。08年、免許取得に伴いライフネット生命保険〔株〕に社名を変更。13年、代表取締役会長。17年に代表取締役を退き、18年1月、立命館アジア太平洋大学(APU)学長に就任(ー2023年12月)。

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