本能寺の変の直前、明智光秀は織田信長から徳川家康の饗応役を命じられる。光秀は心を込めて家康を迎える準備をする。しかし、信長は「腐った魚を料理に出した」と難癖をつけ、光秀の饗応役を突然解任してしまう。
面子をつぶされた光秀。本能寺の変につながる動機「怨恨説」として、小説やドラマでおなじみのシーンである。だが、この話はそもそもどこまで本当なのだろうか。
※本稿は小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。
天正10年(1582)5月14日、武田攻めから安土城にもどった信長は、明智光秀に対し、「在荘」を命じている。「在荘」というのは、「軍務につかなくともよい」というわけで、広い意味の休暇といってよい。この時期、光秀が特に出陣しなければならない戦いがまわりになかったことから、光秀に休暇を与えたものであろう。『兼見卿記』の5月14日の条に、「十四日、辛未、長兵早天安土へ下向、今度徳川、信長御礼の為、安土登城と云々。惟任日向守在荘申付と云々」とある。これは、別本の『兼見卿記』の書き方である。「長兵」は長岡兵部大輔の略で、細川藤孝のことである。
実は、『兼見卿記』には、天正10年については別本と正本の2種類がある。というのは、『兼見卿記』の筆者吉田兼見が特に光秀と親しく、6月12日まで書きついだ日記の方には本当のことが書かれていたので、山崎の戦い後、信長の子信雄や信孝、さらには羽柴秀吉の目にとまったとき、光秀との交流の深さがそのまま表面化してしまうので、急遽、正月からの分を書き直し、それに書きついで、そちらの方を正本としたからである。
ふつうならば、このような場合、都合の悪い別本の方は焼き捨てるなどの処置がなされるはずであるが、どういうわけか、『兼見卿記』の場合、破棄されたはずの別本の方も残っている。その結果、正本との比較対照もでき、兼見が、どのようなところが具合が悪いと感じたかが、かえって浮き彫りになってくるのである。
この、光秀「在荘」についてみると、正本の方には、「十四日、辛未、未明長兵安土へ下向。明日十五日徳川安土に至り罷り上らる也。其について各安土へ祇候と云々。徳川安土へ逗留の間、惟日(惟任日向守)在荘の儀、信長より仰せ付けらる。此の間、用意馳走もっての外也」と記されており、別本との大きなちがいは、「在荘」と家康の接待とが連動しているように記されていることである。
「軍務から解放する。その代わり家康の饗応役をつとめよ」というのと、「休暇を与える」といっておいて、あらためて、「家康の饗応役をつとめよ」と命じられたのではニュアンスに微妙なちがいが感じられる。ただ、これだけの材料では、実際はどうだったのかはわからない。
更新:11月21日 00:05