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小栗栖で明智光秀の首を取ったのは誰か?

2018年03月06日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

明智藪
 

光秀は小栗栖で誰に襲撃されたのか?

本能寺に織田信長を討った明智光秀も、墓が多い武将である。信長を討った謀叛の武将でありながら、光秀に親しみを持つ者が多かったからであろう。

実はそれらの墓から、光秀の実像が見えてくる。しかしまた、謎も浮かび上がってくる。

信長を本能寺に討った光秀は、その11日後の天正10年(1582)6月13日、中国から大返ししてきた秀吉軍3万5千と、京都から大坂への出口に位置する山崎で対峙した。光秀が用意できた兵力は1万4千5百であった。

光秀が迎撃の基地としたのは、娘・玉(ガラシャ)が細川忠興に嫁ぎ、華燭の典をあげた、平城の勝竜寺城(京都府長岡京市)だった。光秀はそこから4百メートル南西にある古墳時代中期(約1600年前)の前方後円墳・恵解山古墳を本陣とした。

急ごしらえで堀を穿ち、古墳上部を平らにして曲輪として、大坂方面から進撃してくる秀吉軍に備えた。やがて光秀は天王山を占拠してその背面に回る作戦に出たが、数に勝る相手に封じられ、淀川べりでは湿地に借り上げた舟を入れて攻め込む巧みな秀吉の采配に屈して敗れ、勝竜寺城に退却した。

しかし、勝竜寺城は秀吉軍にすぐに包囲される。光秀は夜を待って家老の溝尾庄兵衛ら近臣十数人と脱出し、再起をかけて琵琶湖西岸にある居城の坂本城をめざした。宇治川(淀川)の右岸から伏見の北へ進み、大亀谷から小栗栖の丘陵の襞に沿って狭い街道が続いていた。

筆者も現地を取材したが、その丘陵の上に日蓮本宗の寺・久遠山本経寺(京都市伏見区小栗栖)がある。本堂の脇に「明智日向守光秀公供養塔」と自然石に刻まれた碑が、石燈籠を左右に配して建っている。平成10年(1998)に造立されたものである。その本経寺の下をうねうねと、今も車がやっと一台通れるくらいの道が、斜面にへばりつくように建つ民家の間をぬって走る。やがて民家が途切れ、さらに狭い野道に変わるところに明智藪の碑が立っていて、ここから下り坂になる道の両側にうっそうとした竹藪が続く。ここは本経寺の寺領である。

竹藪が途切れ、道脇に水たまりにも等しい小さな池を谷水がつくる場所に出た。目の前が田圃(今は減反で放置)で、その脇を道がさらになだらかに下っていく。犬を散歩させている老婦人が「光秀が槍に突かれた場所はこの小池のところと、昔から言い伝えられてきました」と教えてくれた。

「明智軍記」によれば、ここを通過しようとしたのは14日の丑の刻(午前2時)頃。

郷人どもが蜂起し、落武者から物具をはぎ取ろうとして竹垣越しに突き出された鑓が、馬上6騎目にいた光秀の脇の下に刺さった。光秀はそのまま三町(約327メートル)ほど行き過ぎたが、傷は痛手で、道の傍らに馬を乗り寄せ、鑓を田の中に突き立てた。そして溝尾庄兵衛に「傷は深い。坂本までは無理だ。ここで自害する」と言って、鎧のひき合いから一紙を溝尾庄兵衛に差し出した。

そこには辞世の詩が認められていた。

逆順二門なし
大道心源に徹す
五十五年の夢 
覚め来て一元に帰す
  明窓玄智禅定門

詩の意味は「正道に逆らっても、また従っても同じである。人の進むべき正しい道をわが心はよく知っている。人生55年の夢から覚めて、いま死が訪れようとも何の悔いもない」ということになるが、ここには信長を討った後悔も、秀吉に負けた悔いもない。自分はやれるだけはやったのだという、生臭さの中にも悟りに似た光秀の静かな心が感じられる。

光秀は腹を一文字にかき切ったので、溝尾はすぐに介錯した。そして妙心寺に納めようと、首を包んで狼谷という所まで来たが、敵が充満していて、通れそうもないので、北の山近くに首を埋めたのち、庄兵衛も自刃したのだ。

ここで謎となるのが、光秀は一体、誰に襲撃されたかである。「明智軍記」は郷人だったという。

中山三柳著「醍醐随筆」(寛文10=1670年)は、百姓が垣の内から繰り出した鑓が馬上の光秀の脇腹を突き通し、二、三町(218~327メートル)こらえて走って死んだといい、手柄を立てたのは小栗栖の作右衛門で、この時から武勇の心が起きて、近里遠郷に狼藉者がいると聞けば人より先に駆けつけ、からめ捕ったり、また切り伏せなどして評判になったとある。

「明智軍記」が郷人と記し、また「醍醐随筆」が百姓の鑓に突かれたとする、これが従来の説だが︑明智藪に平成3年(1991)に設置された碑は「信長の近臣、小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃によって最期を遂げたといわれる」としている。これは地元に伝わる伝承であるという。

京都市編「京都の歴史」の4巻「桃山の開花」で「小栗栖には、このとき光秀の首をとったのは、単なる「土民」の一揆ではなく、醍醐三宝院で小栗栖に館をかまえていた飯田家の一党だったという伝承が残っている。飯田家の一族の飯田左吉兵衛というものが信長に仕えて本能寺の厄に会い「追腹」を切った。その恨みで飯田は近辺の民衆をひきつれて光秀を襲った」と述べている。

郷人(百姓)説では光秀が討たれたのは偶然ということになるが、飯田家一党の仕業となれば、待ち受けての確信的な襲撃である。飯田家一党の方が説得力があるが、真相は依然、藪のなかである。

いずれにしろ、光秀は明智藪と呼ばれる竹藪の中の道で鑓に突かれて後、しばらく下り坂の道を走ってから自刃した。その道は今もあって、新小栗栖街道(府道7号)に出る。2つの道がぶつかる付近、車の流れが多い新小栗栖街道の精米所脇に、明智光秀の胴塚がある。

胴塚は無味乾燥な石柱に「明智光秀之塚」とあるだけで、地元山科の人(山本與一郎)によって昭和45年(1970)に建てられたことが、碑の裏面によって分かる。

光秀の首なし遺体が残され、それを郷人が葬ったのかもしれない。しかしその遺体は本能寺に持ち去られた。そして光秀の首について「明智軍記」は、溝尾庄兵衛の自害の様子に疑問を抱いた敵兵がその付近を調べて光秀の首を見つけ、掘り出して秀吉方に渡したといっている。

しかし小栗栖では光秀の胴塚は「御塚」と称されて、大昔から竹藪を背に田圃の中に存在していた︒当初は宝篋印塔だったが、長い年月の末に失われ、昭和39年に、善政を敷いた光秀を慕う京都府亀岡市の人の手によって、石塔が建てられた。周囲は開発されてその塚は現在地に移され、墓石も改められたのだ。

遺体が持ち去られた小栗栖に、胴塚があるのは不思議である。光秀の首塚は何カ所もあるが、しかし胴塚は小栗栖にしかない。郷人たちが光秀を哀れんで、胴塚を築き供養したからだと思われる。
 

※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

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