2017年06月02日 公開
2022年05月25日 更新
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起こりました。明智光秀の謀反により、織田信長が討たれた、あまりにも有名な事件です。
ここでは、現在語られている本能寺の変の真相に関する諸説を、簡単に紹介してみましょう。
まず、明智光秀の単独実行説です。考えられる動機は大きく2つあり、1つは信長の四国政策の急転です。それまで四国の長宗我部氏と織田氏は同盟関係にあり、光秀は取次役を務め、光秀の家臣たちは長宗我部家中と多くの姻戚関係を結んでいました。ところが石山本願寺が織田に降ったことで、本願寺の背後を衝く位置にいた四国の長宗我部氏の存在価値が信長にとって薄れ、むしろ織田一門領を四国にも拡大しようとします。無論、長宗我部にすれば信長の裏切りであり、激しく反発。信長は四国討伐に動き、光秀はその板挟みとなったというものです。
これに関連して、光秀の家臣・斎藤利三が後押ししたという説もあります。一説に利三の母親は明智光秀の妻の妹(姉)ともいわれます。もっとも利三の生母ではなく、利三の父親の正室であったようです。別の説では、母親は蜷川氏。利三の母は後に石谷光政と再婚し、娘を産みました。それが土佐の長宗我部元親の正室です。従って利三と長宗我部元親は縁戚(利三は元親の室の義兄)ということになります。その縁もあり、光秀や利三は、長宗我部氏とは深く交わっていました。
利三はもともと稲葉一鉄に仕えていましたが、元亀元年(1570)頃に一鉄と仲違いをしたといい、明智光秀に召し抱えられます。以後、明智家中の重臣となりました。その後、天正10年(1582)に、同じく稲葉家中の那波直治が稲葉家を致仕し、やはり光秀に仕えました。これに対して稲葉家は、利三と那波を稲葉家に戻すよう、信長に訴えます。信長が下した裁決は、那波は稲葉家に戻し、利三には切腹させるというものでした。その裁決が下ったのは、本能寺の3日前であったといいます。さすがに利三の切腹に対しては、周囲のとりなしで撤回されますが、一説には利三を明智家中に置くことを懇願する光秀を、信長が折檻したというものまであります。
なぜ稲葉家の訴えが全面的に認められ、利三には切腹という厳しい裁決が一方的に下ったのか、疑問が残ります。織田家中における存在感は、稲葉よりも光秀の方が上であることは明白だと思うのですが、このあたりはよくわかりません。ただ、こうなると光秀と利三が不満と不信を抱いたとしてもおかしくありません。折しも信長は、それまで光秀や利三が親族あげての友好関係を築いてきた四国の長宗我部に対し、これも一方的に討伐にかかろうとしていました。縁戚の長宗我部を滅ぼそうとし、自分には切腹を命じた信長に対し、利三が主君光秀に何かを働きかけたのではないか。ちなみに、本能寺の変後の山科言経の『言経卿記』には、「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」とあります。
もう1つの単独実行説の動機は、信長の朝廷に対する非道を、光秀が阻止しようとしたというものです。 信長は正親町天皇に誠仁親王への譲位を迫る一方、安土城天主よりも低い場所に御所の清涼殿を模した本丸御殿を築き、そこに天皇を招こうとしていました。 これは天主から天皇を見下すことを意味し、信長が皇位簒奪、あるには天皇の上に立とうと目論んでいると光秀は危惧します。さらに信長は暦にも口を挟み、京暦を尾張暦に変えさせようとしました。これも暦を司る朝廷の権威を脅かすものです。こうした信長の行動に朝廷がないがしろにされることを憂慮した光秀が、自発的に起ったというものです。
次に光秀の単独実行ではなく、協力者がいたという説があります。その人物とは、徳川家康。光秀の子孫にあたる、明智憲三郎氏などが主唱するもの。一見、荒唐無稽ですが、しかし武田征伐後、信長が家康を討つのではないかという憶測が当時、存在しました。実際、光秀の配下で本能寺に向かった本城惣右衛門は、「我々は信長の命令で家康を討ちに行くのだと思った」と記録しています。 明智憲三郎氏は、家康一行を安土に招いた折、信長は家康を殺すつもりで、その役を命じられたのが光秀ではなかったかと推理します。しかし光秀は、信長の天下統一構想に危険なものを感じ、家康にそのことを打ち明けた上で密かに同盟を結び、逆に自ら信長を討ったのではなかったか、と。アビラ・ヒロンの『日本王国記』には、信長は本能寺で「余は余自ら死を招いたな」と言ったと記録されていますが、事実であれば、それは家康を討つはずの刃(光秀)が自分に向けられてしまった、という意味ではないかとするものです。
この他、黒幕説としては羽柴秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説なども存在します。確かにどれも可能性はあり、特に本能寺前後の公家の動きには、不可解な部分も散見されます。 さらにはイエズス会黒幕説、本願寺黒幕説、堺の商人黒幕説、伊賀忍者関与説、森蘭丸関与説なども存在するとか。 さて、みなさんはどう考えるでしょうか?
更新:11月22日 00:05