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本能寺の変から10日間、明智光秀の足取りから見えるもの

2014年08月10日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

坂本城跡
坂本城跡(滋賀県大津市)

光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか。事変から山崎の合戦までの10日間の中に、その謎を解くヒントが潜んでいるかもしれない。

※本稿は『歴史街道』2014年9月号[総力特集]本能寺の変より一部抜粋・編集したものです。

 

本能寺の変から山崎の合戦までの10日間

天正10年(1582)6月2日に本能寺の変を決行した明智光秀は、同月13日の山崎の合戦で、羽柴秀吉軍と激突する。この間の光秀の足取りからは何が見えてくるだろうか。

信長・信忠父子を京都で討った光秀は、同日午後、坂本城に戻り、各方面に今後の協力要請の書状を送っている。現在では、美濃の西尾光教宛てのものしか残らないが、光秀滅亡後に処分されたためだろう。実際は相当な数を送っていたと思われる。

5日、光秀は安土城を占拠すると、秀吉の長浜城や丹羽長秀の佐和山城も制圧した。そして7日には、朝廷からの使者として吉田兼見の訪問を受けている。兼見は禁裏守護の勅命を伝えるとともに、誠仁親王からの進物を渡した。これは、朝廷が本能寺の変を認めたことを意味する。

光秀が次に大きな動きを見せたのは、9日の上洛だ。公家衆や町衆はこれを盛大に迎えたといい、光秀は吉田兼見邸に赴くと、天皇や親王、京都五山、大徳寺、そして兼見にも献金した。光秀が勤皇家で、朝廷と強い結びつきを持っていた証であるとされる。

また、光秀は京都の地子(税)を免除して民衆の支持を得ようと努めた。こうした政策への評価は今も二分されており、「悠長」とされる一方、「中国大返し」など知る由もない光秀にすれば、堅実な方法だったともいわれる。

ともあれ、光秀の軍政は順調に推移していたかに見えたが、やがて雲行きが怪しくなる。最大の誤算は、期待をかけていた細川藤孝・忠興父子、そして筒井順慶の支援が得られなかったことだ。

光秀と交友が長く、姻戚関係も結んでいた細川藤孝だったが(光秀の娘・玉が忠興の室)、度重なる支援要請にも首を縦に振らず、それどころか信長に哀悼の意を表明して髪を切り、謹慎した。

筒井順慶とは洞ケ峠で合流して、神戸信孝・丹羽長秀軍を討つ手筈だった。光秀は計画通り、9日夜に洛南の下鳥羽へ進出して河内へ出兵、翌10日に洞ケ峠で筒井軍を待った。ところが、一兵も姿を現わさない。順慶は籠城して日和見を決め込んだのだ。

そして翌日夜、光秀は羽柴軍が尼崎に着陣したことを知る。結果として、当てにしていた細川父子と筒井順慶を味方にできなかったことも、本能寺が「単独での場当たりの犯行」と語られる際の論拠の1つとなっている。

なお、光秀は9日付けで細川父子にある書状を送っている。翻意を促すものだが、「五十日、百日ほどで天下が平定したら、その後は互いの子供たちの世代に任せたい」と認めている。この点のみを見れば、光秀は天下人を目指していたのではないようにも思える。

また、光秀は秀吉との戦いの準備を進める最中にも一通の書状を出していた。12日付けのもので、現存する光秀の最後の書状と考えられている。

宛先は、信長と対立していた雑賀衆の土橋平尉。重要なのは、土橋から足利義昭が上洛する意志のあることを伝えられた光秀が、歓迎して奔走すると述べている点だ。

義昭との同盟を策していることが分かるが、12日と言えば山崎の合戦前日。この書状のみでは、いつの時点から義昭との連携を図っていたかは定かでなく、むしろ「この時点で初めて策した」とも見られている。

光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか。事変から山崎の合戦までの10日間の中に、その謎を解くヒントが潜んでいるかもしれない。

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