遠江の三方原の戦いに勝利した後、野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄が、伊那街道から三州街道を経て本国の甲斐に引き揚げる道すがらの元亀4年(天正元=1573年)4月、一体どこで死んだのか、その謎は解明されずに今日にいたる。
そして信玄塚や死亡伝承地が沿道の随所に点在する。
信玄は風林火山の旗を都に掲げる野望を抱いた。将軍・義昭の求めに応じ、本願寺、朝倉義景、浅井長政らと呼応して、比叡山焼打ちなど仏法を軽視する織田信長に対して、上洛の兵を動かしたのだ。元亀3年12月22日、2万5千の軍勢は天竜川を渡り、三方原台地に上がり、家康の浜松城を無視して、姫街道を通り三河に向かう姿勢をみせた。これに家康は自分の庭を土足で踏み荒らすのは許せぬとして、1万1千の兵を率いて追跡した。31歳と若い家康の心理を読み切っていた信玄は、計算通りに軍勢を返し、三方原で家康軍に痛烈な打撃を与えて大勝利をおさめた。
だがここで信じがたい事が起きた。翌日、武田軍は三方原台地を下りたが、都田川の南側、井伊領だった祝田の地(静岡県浜松市北区細江町)一帯に陣を敷いて動かなくなったのだ。その理由を語る史料はない。しかし信玄はここで発病したとみられる。実は甲府を発つ前から健康を害し、出陣を遅らせたほどだった。これは信玄の発病以外に考えられない。何しろここで越年し、この間、全軍は十日間まったく動かなかった。信玄の病状が持ち直したのか、年明けの正月3日から7日にかけて、軍勢を分散させて、やっと三河野田城(愛知県新城市)に向かい、家康方の野田城を包囲したのだった。
俗説ではここで鉄砲に撃たれて傷を負い、それが命取りになったという。だがこれは事実ではなく持病の悪化だった。信玄の侍医といわれる御宿監物の長状(天正4年の信玄葬儀直後、小山田信茂に送った書状)には「肺肝により、病患たちまち腹心に萌し安んぜざること切るなり。倉公華佗(漢・後漢の名医)が術を尽し、君臣佐使(漢方の生薬の組合せ)の薬を用ふると雖も、業病更に癒えず。追日病枕に沈む」とある。この病状から、信玄は肺結核か胃がんだったのではないかといわれる。
2月10日、野田城を落として、さらに西進の意欲を示し、病状の回復を待つため長篠城に移って養生に励んだが、平癒の兆しはなく、むしろ悪化するばかりだった。
そこで4月に入って、いったん帰国することになった。
信玄を乗せた駕篭は長篠城から鳳来寺山の西側を通り、山また山の伊那街道から三州街道に入って北上する。信玄はその途中、信州駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で死んだという説が多いが、実ははっきりしない。
『甲陽軍艦』は「信玄公ねばね(根羽)にて御他界」といい、下伊那郡天龍村の郷士熊谷家の400年を記録した『熊谷家伝記』には「明る十二日に根羽にて御息止る」と記される。
根羽(今は「ねば」という)は下伊那郡の西南端(長野県の最南端)に位置し、谷を刻む根羽川沿いに集落があり、信玄塚(下伊那郡根羽村横旗)がある。三州街道に伊那街道が相会するところでもあり、三州街道には現在は国道153号が走り、根羽の信玄塚のある場所まで、駒場からでは20キロ余り手前にある。
国道からわずかに入った場所にある信玄塚は、高さ1.84メートルの花崗岩製の宝篋印塔である。寛文年間(1661~73年)の信玄公百年目の遠忌に際して、武田家ゆかりの人々によって建てられたといわれるが、塔の様式はこれより古いとされる。
この地が横旗と呼ばれるのは、信玄が死んだために風林火山の旗を横に寝かせたため、横旗の地名が付いたのだという。また根羽を「ねばね」とも読むのは、地元で夜に床について寝ることを「ねばね」といったからだそうだ。
信玄の遺体はこの根羽に埋葬されたと伝えられる。ただしそれは宝篋印塔のある場所ではなく、信玄塚入口の国道の山を削った側壁に、武田騎馬軍団と風林火山の旗を描く大壁画がある。その国道の場所に遺体を埋葬した信玄塚があったというが、今は存在しない。
信玄終焉の地とされる場所は、さらに三州街道を北上する途中にもある。赤坂峠(標高951メートル)を越えると平谷村に入る。すぐまた治部坂峠(標高1187メートル)があり、その先が浪合(波合)である。大久保彦左衛門著『三河物語』は「本国へ引て入るとて、御病おもく成りて、平谷波合にて信玄は御病死成されける」といい、『改正三河後風土記』は「信州平谷・波合に入て、旅宿にて病を養う」といい、「五十三歳を一期の夢として、浪合の夜の間の露と消うせたり」と記す。また『徳川実紀・東照宮御実記』にも、野田城での鉄砲の傷がもとで、信州波合で死去したとある。
ただし、一ノ瀬義法著『武田信玄終焉地考』によれば、平谷・波合には史跡となるものは何も残っておらず、墓石や供養塔の伝承も一切ないという。
そして駒場で死んだとするのは、家康の外孫である松平忠明が記した『当代記』で、「四月、信州駒庭(駒場)に於いて武田信玄卒年五十三」とある。また先に引用した御宿監物書状では「終に信州駒場に於いて、黄泉の下既に属纊(臨終)の砌、勝頼公を枕頭に近づけて曰わく……」と書いている。
御宿監物書状によれば、信玄は生きて駒場に辿り着き、ここで死を悟って勝頼を枕頭に呼んで遺言したことになっている。だがこの駒場で信玄は死んだとするが、具体的な場所は伝えられていない。御宿監物書状にしろ、また『改正三河後風土記』にしろ、遺言地と死亡地が同じになっているが、それは別々で、遺言を残した後、駒場まで来るまでの途中、駕篭の中で息を引き取った可能性も否定できない。
現在、駒場の長岳寺(下伊那郡阿智村駒場)には武田信玄公灰塚供養塔が建っている。スラッとした十三重の石塔だが、できたのは新しく、昭和49年(1974)の信玄公四百年祭の時に火葬地から灰を移して供養塔としたものだった。
長岳寺は信玄が出陣の際に立ち寄り、戦勝祈願をし、宿所ともしたとされる。信玄の義理の兄弟にあたる裕教法印が住職だったとされ、彼の手で火葬された。
ところで長岳寺は何回か移転しており、現在地は中央高速道路の建設に伴い、高速道路の北側から、南側の阿智川べりに移っている。その旧長岳寺の裏山に、信玄を荼毘に付したと伝承される火葬地があって、ここの灰を取り出して、灰塚供養塔の下に埋めたのである。
この灰塚供養塔建立の由来記が、境内の看板に書かれている。それによると昭和6年(1931)信州佐久市岩村田龍雲寺境内から、信玄の遺骨が発見され、その骨壺の中より袈裟の環が出てきた。その環に「大檀越信玄、時に天正元年四月十二日駒場に於いて卒、戦時のため舎利を納め、ここに北高和尚が頂礼百拝した」と書かれていた。そこで龍雲寺から信玄が駒場で火葬されたかどうか照会があり、信玄火葬塚のあることを伝えた。
その7年後の昭和13年に駒場の火葬塚跡で灰と骨粉が認められたことから供養塔の建設が持ち上がったが、太平洋戦争で沙汰やみになり、やっと四百年祭で十三重の供養塔の建立が実現したという。
これによれば、駒場で火葬された信玄の遺骨が、信玄ゆかりの佐久の龍雲寺にも分骨されたことになる。なお、龍雲寺には現在、信玄の霊廟がある。
最近のさまざまな書物をみると、この龍雲寺の一件もあって、信玄の終焉地として駒場説を採用するものが多い。だが真実は藪の中である。
更新:12月10日 00:05