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真田幸村の妻と娘は、大坂の陣の後、どうなったのか

2017年12月13日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

六文銭

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実

なぜ、伊達藩領に幸村の墓が……生き延びた娘たちの行方

伊達家の重臣・片倉家1万8千石のかつての城下町、宮城県白石市本町に真田六文銭を寺紋とする当信寺がある。ここに大坂夏の陣の時、激戦の渦中にあって炎上した天王寺から、家臣が背負ってはるばる白石に持ち帰った阿弥陀如来像が鎮座し、 阿梅(おうめ)の位牌もまた六文銭をあしらうとともに、如意輪観音像をかたどった彼女の墓もあり、さらに隣りには弟大八守信の墓がある。

阿梅とは真田幸村の娘で、片倉小十郎重綱(後に重長と改名)の妻となった女である。当信寺に幸村自身の墓はないが、この阿梅がキーになって、伊達藩領に幸村の墓が誕生した。

片倉家文書「老翁聞書」によれば「大坂落城の砌、城中より年の程十六、七ばかりの容顔美麗なる女性、白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖つきて重綱公の陣先へ出けり。重綱公これを連れ帰りたまいて後室とす」とある。

なぜ幸村は片倉家に娘を託したのか。「仙台士鑑」は大坂夏の陣の5月6,7日の激戦前の5日夜、幸村は家臣二人を密かに重綱の陣所に遣わし、「主人幸村には掌上の珠に等しい娘がおり、落城で身が瓦となって砕け散るのを忍びなかった。そこで幸村は城上から天下諸大名の陣所を見渡すに、娘を託するに足る者は一人重綱公あるのみと思った。公は英才をもって勇武を兼ね、兵鋒の嚮う所敵なしの天晴れ武臣というべきである。願わくは吾が請を容れて愛子を托したい」と幸村の言葉を伝えると、重綱は承諾したというのだ。

重綱は夏の陣で伊達政宗の先鋒となり、伊達軍が討ち取った首級850のうち、5分の1を挙げる活躍をした。

しかし、こうした逸話はでき過ぎとの見方もあり、実は秀吉在世時に幸村と重綱は顔見知りだったから、大坂城の最も近くに布陣していた重綱を頼ったのだともいわれる。

それはともかくとして、重綱は白石城に凱旋し、二の丸に17歳の阿梅を匿った。

そして妹の阿菖蒲、おかねや弟の守信たちが、阿梅を頼って白石城に来ると、重綱は快く妹弟たちを受け入れた。

片倉家の後室となった阿梅は、慶安元年(1648)に亡き父幸村と母の大谷吉継の女を弔うために月心院を建立し、位牌を安置した。月心院の名は片倉家が幸村につけた法号「月心院単翁宗伝大居士」からとったもの。明治維新の戊辰戦争で、伊達家は降伏し、活路を求めて北海道開拓のため移住した。この時に片倉家臣も多く従ったことから、月心院は明治初期に廃寺になった。記録にはないが、幸村の墓があったことも十分に考えられる。

その白石市に幸村の供養墓がある。白石城の西2キロほど行った白石市福岡蔵本字愛宕山の田村家墓地にあるその墓は、俗名も戒名も刻まれておらず、ただの自然石の墓である。

田村家は伊達政宗の正室愛姫の実家である。三春城(福島県田村郡三春町)5万石の城主だった愛姫の父清顕は、秀吉が求めた小田原参陣に応じなかったために取り潰された。その田村家の再興を、愛姫は片倉家に頼む。

そこで片倉重綱は寛永13年(1636)、伯母で伊達政宗の教育係だった喜多の名跡を田村定広(清顕の孫養子)に継がせ、妻阿梅の妹の阿菖蒲を自分の養女にして、二人を結婚させた。滅びた田村氏と幸村系真田家は不思議な縁のもと、片倉を名乗り知行300石で伊達家臣となり、仙台に住んだ。阿菖蒲は一男一女の母となり、60歳少し前の寛文4年(1664)7月18日に死んだ。夫定広が逝ったのはその11年後である。

田村家墓所には20基の墓石が並ぶ。正面に5基の墓があって、中央が田村清顕(本墓は三春の福聚寺にあり)、その清顕の左隣りの2基が定広と阿菖蒲の墓である。

その阿菖蒲の墓の左手前が幸村の墓である。

その墓の配列から推測すると、墓地は定広・阿菖蒲夫妻の死後にできた可能性が高い。幸村の墓はおそらく阿菖蒲に従った真田旧臣たちが、彼女の想いを尊重して建てたに違いない。墓地の付近にはかつて真田旧臣たちの屋敷があったとされるからだ。

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