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豊臣秀長は、兄・秀吉のブレーキ役だった? 天下統一を実現させた“真の功労者”

2024年05月16日 公開

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

大和郡山城
↑豊臣秀長が城主を務めた大和郡山城

「有名だけれども、よくよく考えると、何をした武将なのか...」。知名度に比べて、実像が知られてない武将は数多いが、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長もそうかもしれない。果たして彼は、何者だったのか。「秀長をもっと知ってほしい」と語る小和田哲男氏が、その実像を解き明かす。

 

異父兄弟か、実の兄弟か...

豊臣秀長は、秀吉の3歳年下の弟として、天文9年(1540)、尾張国の中村に生まれました。秀吉と秀長の母・なかは、最初の夫である弥右衛門に先立たれ、竹阿弥を次の夫に迎えています。そうしたことから、秀吉と秀長は、異父兄弟と言われることがありますが、私はそうではないと見ています。

なぜかというと、弥右衛門が亡くなった年は、秀長が生まれてから3年後の天文12年(1543)だからです。このことから、秀吉と秀長は血のつながった兄弟と考えられますが、継父となった竹阿弥との折り合いが悪かった秀吉は、家を出て行くこととなります。

周知のようにその後、秀吉は織田信長に仕えて立身し、さらに天下統一を成し遂げるわけですが、秀吉と秀長の家は、決して裕福な農民ではありませんでした。

初期の秀吉というと、木下藤吉郎という名を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし実は、「木下」という名字は、秀吉の正室・ねねの実家のものであり、秀吉はねねと結婚することで、初めて名字を名乗ることができたのです。つまり、それまでは名字がなかったわけで、そこから、秀吉一家が貧しい農民だったことがうかがえます。

当時、農民の中でも、名字を持てる階層と持てない階層とがあり、前者は「名字の百姓」といって、豪農とはいわないまでも、かなり恵まれた農民でした。

それに対して、後者は農民の中でも比較的貧しい家と見ていいでしょう。しかし、そのような境遇に生まれながらも、秀長は真面目に働き、秀吉が出ていった後の家を、支えていったものと思われます。

 

秀長が武士として出世できた背景

そんな農民として暮らしていた秀長に、突然転機が訪れます。永禄5年(1562)、兄の秀吉が家に戻ってきたのです。

家を出ていた秀吉は、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で信長が今川義元を破ったころ、織田家の足軽に昇進。その後も活躍を続け、永禄5年ごろになると、部下を持つ足軽組頭に成長していました。出世の糸口をつかんだ秀吉としては、身近に信頼のおける家臣がほしい。そこで弟の秀長のことを思い出し、やってきたのでしょう。

秀長は、突然現われた兄から、武士となって自分を支えてほしい、と求められます。今まで田畑を耕す生活をしていた者が、いきなり武士へと転身する......。現代人の感覚からすれば、全く別の能力が求められるため、断りたくもなるでしょう。

しかし秀長は、兄の誘いを受けるのです。その決断の背景は、当時の兵農未分離という時代状況も含めて考えるべきでしょう。

この時代の農民というと、どうしても江戸時代の兵農分離のイメージでとらえがちです。武士と農民は完全に別々の存在に見えるかもしれませんが、当時は違います。秀吉や秀長が若いころはまだ、武士と農民の区別があいまいな状態でした。というのも、農民であっても、戦がおきれば動員され、武器を持って戦っていたからです。

ではなぜ、農民は危険な戦いに参加していたのでしょうか。それは地主と小作の関係から説明することができます。

地主は当時の土豪、つまり地侍ですので、戦いに出ることが頻繁にあり、小作に対して、合戦に参加するよう命令していました。時には小作料を免除するからといって、参加を求めることもあり、貧しい農民の生まれである秀吉も秀長も、戦に出た経験があったはずです。

戦の経験を重ねるたびに、秀吉や秀長は机上の空論ではない、実践的な戦い方を、体に沁み込ませていったに違いありません。こうした経験があったからこそ、秀吉は信長のもとで頭角を現わせたのであり、また秀長も、兄によっていきなり武士とされながらも、見事に順応していくことができたのです。

 

資料から見える武功とは

秀長が武士となったころ、織田信長は美濃を平定すべく、斎藤道三の孫である斎藤龍興と戦っていました。秀吉も信長のもとで、美濃攻めのために働くこととなりますが、このあたりから、秀長の武将としての活躍が見えはじめます。

信憑性には乏しいですが、『絵本太閤記』という、秀吉の生涯を描いた江戸時代の資料があり、そこに永禄10年(1567)の8月、信長による美濃の稲葉山城攻めの際に、秀長が武功を立てた様子が描かれています。

稲葉山城を攻める時、まず秀吉が二の丸に攻め込んでいき、米蔵に放火。その火を合図に、表で待っていた秀長が一気に城へと攻め上がって攻略したというのです。

これが事実だとすれば、秀長は28歳にして、武士として最初の功績を上げたことになります。ただし、繰り返しますが、『絵本太閤記』は信憑性が低い。そこで、確かな資料でたどっていくと、次に出てくるのは『信長公記』の記述です。

天正2年(1574)7月、信長は、伊勢長島の一向一揆の鎮圧を迫られていました。そして『信長公記』に、一向一揆を攻めた武将の一人として、「木下小一郎」の名が記されているのです。

小一郎とは秀長の通称ですが、なぜ、秀吉の名ではなかったのでしょうか。その前年、浅井長政を滅ぼした信長から浅井氏の旧領を褒美として与えられた秀吉は、長浜城の築城に力を注いでいました。そのため秀吉は、秀長を名代とし、羽柴軍を率いて出陣することを命じたのでしょう。つまり、このころから、秀長は「秀吉の分身」としての働きを見せはじめるようになるのです。

ちなみに、さきほどの『信長公記』の「木下小一郎」の名の後には、「丹羽五郎左衛門」(丹羽長秀)、「佐々内蔵助」(佐々成政)、「前田又左衛門」(前田利家)といった重臣の名も見えます。秀長はそうした重臣と並んでも恥ずかしくない人物として秀吉から信頼されていたのでしょう。

翌年の天正3年(1575)2月ごろ、長浜城が完成。長浜城主として12万石を領するようになった秀吉は、家臣団を強化していき、そして秀長の下にも、藤堂高虎のような有能な家臣が集まりはじめるのでした。

信長は畿内を押さえると、天正5年(1577)から、中国平定に乗り出します。その中国方面の総指揮官を任されたのが、秀吉でした。そして秀長は、秀吉の手足となって働くばかりではなく、一軍を率いる武将として本領を発揮しはじめます。

中国攻めにおいて、秀吉が播磨や備中、備前などの山陽地方、秀長が但馬などの山陰方面を担当し、それぞれが攻略を進めていくこととなりました。格としては秀吉が総大将、秀長が副将という位置づけで、瀬戸内海側と日本海側という役割分担が見事に機能していくこととなります。

この時期の秀長の武功として注目したいのは、「天空の城」という呼称で知られている竹田城攻めです。この城を落とした秀長は城代となりますが、秀吉は秀長に対する信頼をますます深めていったことでしょう。

中国攻めの功績で、秀長は但馬の七郡を与えられたといいますが、仮に信長からの指示だとすれば、大名として認められたととらえることもできます。

ただおそらく、この時は依然として、大名格ではなく、秀吉の持つ領地の一部の責任者という程度でしょう。信長の死後は、秀吉の裁量で秀長は抜擢されていますので、間違いなく、独立した大名ということができます。

とはいえ、中国攻めのころには、信長政権の中でも、秀吉は柴田勝家や明智光秀と肩を並べる存在です。そのため、秀吉の片腕である秀長も、信長から見れば陪臣ではあるものの、「あいつはなかなかやるな」と期待される存在だったのではないでしょうか。

 

豊臣政権における役割

秀吉と秀長が中国攻めをしている最中の天正10年(1582)、本能寺の変が勃発し、織田信長が世を去ります。その後も、山崎の戦い、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻めと、秀長の活躍は続きます。その中でも注目すべきは、賤ケ岳の戦いです。

賤ケ岳の戦いに関しては、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館に、興味深い文書が伝わっています。

天正11年(1583)4月3日付の秀吉から秀長に宛てた書状で、そこからは、秀吉と秀長が綿密に相談し、作戦を練ったうえで柴田勝家と戦ったことがうかがえるのです。

しかもこの時、秀長が陣を構えた場所は田上山。秀吉の本陣である木之本のすぐそばにある砦で、まさに、秀長が身を挺して秀吉をまもるような布陣をしているのです。秀吉と秀長は、一心同体となり、柴田勝家を破ったといえるでしょう。

天正13年(1585)の紀州攻めの後、秀長は紀州と和泉を与えられ、64万石を領する大名となり、さらに同年に大和まで与えられ、100万石の大大名へと栄達。大和大納言と称されるようになるのです。

この年、秀吉は関白となり、豊臣政権を樹立。秀長はその政権を支える重要な存在となりますが、その位置づけは、他の家臣と全く異なるものでした。

秀長は、黒田官兵衛のような軍師的な働きをしたわけでもなく、石田三成のような奉行的な働きをしたわけでもありません。秀長は、そうした多彩な家臣団を取りまとめるような、まさしく「秀吉の分身」と表現するしかないような、豊臣政権にとって唯一無二の存在だったといっていいでしょう。

 

兄のブレーキ役として

しかし、「分身」とはいえ、秀吉と秀長の性格は全く異なります。

秀吉は、結構お調子者といいますか、思い付きで動いていくタイプ。それに対して、秀長は冷静沈着な性格で、先々のことを考え、慎重に動いていくタイプです。そのため、時には軽挙妄動に走ってしまいそうな秀吉を、秀長がたしなめてコントロールするような局面もあったことでしょう。

こうした兄弟の有様は、自動車の運転にたとえられます。トップである秀吉が運転席に座り、ハンドルを握って運転している。その助手席に座っているのが秀長で、ナビゲーター役とブレーキ役を務めていた──。

兄の運転が不安定なら、弟が「兄さん、これではスピードの出しすぎ。方向も違うよ」とチェックを入れる。兄はそれに応じて、スピードと方向を調整する。

そうすることで、秀吉と秀長は天下統一への道を歩んでいったのです。秀長の補佐があってこそ、秀吉は成功をつかむことができたのであり、秀長はまさに、天下統一の最大の功労者といっても過言ではありません。

それだけに、小田原攻めのころから、秀長の病気が重くなり、天正19年(1591)に亡くなったことは、豊臣家にしてみれば大きな痛手でした。秀長の死後は、秀吉の助手席に座るものがいなくなり、千利休の切腹事件や、豊臣秀次事件、さらに朝鮮出兵といった政権を揺るがす事件が次々と起こるのです。

歴史に「イフ」はありません。しかし、もし秀長がもう少し生きていれば、やはり、豊臣政権のその後は大きく変わったのではないでしょうか。

徳川家康らが名を連ねる五大老という制度も生まれなかったかもしれませんし、関ケ原の戦いが生じていなかった可能性もありえます。その意味で、豊臣秀長は戦国時代において、大きな足跡を残したといえるでしょう。

 

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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