2024年02月28日 公開
関ケ原合戦における岩崎一揆は、"失策"とみられがちだ。 のちに、一揆を支援した伊達政宗が、徳川家康から 「百万石のお墨付き」を反古にされたからである。 しかし、一揆勢を率いた和賀忠親の動機と、東北の利害関係に迫ると、全く異なる情景が見えてくる。
※本稿は、『歴史街道』2022年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
慶長5年(1600)、和賀氏当主の和賀忠親は、伊達領の胆沢郡大森 (岩手県金ケ崎町)に潜伏し、捲土重来の時機を待っていた。
「あれから、はや10年。あのとき父上と共に小田原に馳せ参じておれば......」
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかった和賀氏は、直後の奥州仕置により、葛西氏、大崎氏、稗貫氏などと共に所領を没収された。
和賀氏は、始祖が源頼朝の庶子との異説が伝わるほど、鎌倉幕府から一目置かれた名門である。実際の始祖は、刈田義行といわれる。頼朝に仕えた中条義勝の次男で刈田郡(宮城県)を治めた刈田義季(成季)の嫡男だ。
義行は和賀郡(北上市)に領地を得て、和賀氏を名乗った。岩崎に館を構え、のちに二子城を本城とした。室町幕府のもとでは和賀郡惣領職として郡内を治め、和賀郡を中心に、最盛期には65カ村6万8000石を領する地方大名へとのしあがった。
それだけに和賀氏の主従にとって、秀吉の一存で先祖伝来の土地を追われるのは、あまりに理不尽との思いが強かった。
天正18年10月、葛西大崎一揆が起こると、忠親の父義忠はこれに呼応し、稗貫広忠と謀って蜂起した。広忠は義忠の実兄だが、稗貫輝時の養子となり、家督を継いでいた。
一揆勢約二千は、豊臣方の郡代が守る二子城を急襲して奪還。勢いに乗じて稗貫氏の本城だった鳥谷ケ崎城(花巻市)を攻め立てたが、南部信直の軍勢が救援に駆けつけてきたため攻略を断念。
ところが、信直は城兵を救出したものの、厳寒期を乗り切るだけの糧食はなく、本城の三戸城(青森県三戸町)へ撤退した。稗貫氏は、労せずに旧領を取り返した。
翌19年(1591)6月、秀吉は奥州再仕置軍を差し向けた。再仕置軍は、奥羽の諸将も加わって総勢十万ともいわれる大軍に膨れあがった。
8月、一揆勢は成す術なく潰走した。和賀義忠は出羽に逃れる途中、横川目(北上市和賀町)辺りで落ち武者狩りにあって落命した。忠親は父の無残な死に姿を目に焼き付け、無念を晴らすと誓った(稗貫広忠は、3年後に旧大崎領内で死没したと伝わる)。
和賀・稗貫二郡は南部信直に与えられ、南部領は伊達領と境を接した。伊達政宗は心中穏やかでない。伊達領に逃れた忠親と対面し、16歳ながらひとかどの人物であることを見抜いた。秀吉の目を憚って家臣に取り立てることは控えたが、将来を見据えて庇護した。
瞬く間に歳月が流れ、慶長5年、25歳になった忠親に好機が巡ってきた。6月、秀吉亡き後、大坂城で政務を執る徳川家康が、会津の上杉景勝を討つために出陣した。
7月中旬、下野小山において「石田三成、挙兵」の報がもたらされた。家康は会津征伐を中止し、反転した。 9月上旬、景勝は隙を突いて、重臣の直江兼続を総大将にした大軍を最上領内へ進攻させた。慶長出羽合戦の始まりである。
上杉軍の総兵力は二万五千。対する最上軍は七千。このままでは勝ち目がない。最上義光は奥州の諸侯に救援を要請した。政宗は叔父の留守政景を総大将にした援軍三千を送った。南部信直の跡を継いだ利直も、自ら軍勢を率いて救援に向かった。
「千載一遇とはまさにこのこと。今立たねば、和賀氏の再興は永劫にかなわぬ」
腹を括った忠親は政宗から支援の密約をとりつけると、用意周到に張り巡らせておいた連絡網で旧家臣団に戦支度を急がせた。
政宗には、忠親に旧領を奪還してもらい、南下政策をとる南部氏の脅威を削いでおきたいとの思惑があった。南部領は金の産地として名高い。南部氏を攻略する際の出城としても、旧和賀稗貫領を押さえておきたかった。
所領を没収された無念さは、政宗も体験している。政宗は蘆名氏を破って会津を手に入れたが、秀吉の私闘禁止令(惣無事令)に背いたとして没収され、蒲生氏郷の所領となった。さらに氏郷の密告により秀吉から葛西大崎一揆を煽動したとの疑義を抱かれ、一揆を平定した。
だが、結局は旧葛西大崎領への転封を命じられ、居城を米沢から岩手沢(のちに岩出山)へ移す羽目になった。 その後、越後の上杉景勝が会津に移封となり、120万石の大名になっていた。
政宗は家康から「上杉を討伐すれば、旧本領地を与える」との約束をとりつけていた。長女の五郎八姫は、家康の六男・松平忠輝と婚約している。忠親が失地回復を果たせば、気脈を通じる家康に認めてもらう算段だった。
慶長5年9月、和賀忠親は、南部領の二子城で挙兵した。かつての居城は、秀吉の命により破却されたが、代官館として残されていた。
忠親が館を急襲すると兵は敗走した。 陣触れに呼応し、稗貫氏、和賀氏の旧臣だけでなく葛西氏、南部氏に滅ぼされた斯波氏などの郎党、残党などが参集してきた。
目指すは花巻城。和賀稗貫一揆のときは鳥谷ケ崎城と称したが、郡代の北信愛(松斎)により改称された。信愛は南部信直の側近として、南部氏の隆盛に貢献した英傑である。高齢のうえ失明していたが、花巻の城下町づくりに励んでいた。
忠親挙兵の報が届いたとき、花巻城には十三騎と従兵が残っているだけであった。北信愛は町家の男たちも城に入れて、弓や刀、槍を与え、侍女や女中にも鉄砲を持たせた。
9月20日未明、一揆勢五百(『南部史要』)は、花巻城へ夜襲をかけた。相手は知将の北信愛とはいえ、兵力は一揆勢が上回る。破竹の勢いで三の丸、二の丸を落とした。
「残すは本丸のみ。かかれ!」 忠親は声を振り絞って鼓舞した。だが、城兵も必死の抵抗を示し、御台所前御門を挟んで一進一退の攻防が続いた。 いつしか東の空が白み始めている。
突然、鬨の声が轟いた。騎馬が続々と城内への坂を駆けあがり、一揆勢の背後に迫った。
「北十左衛門、参上つかまつった。これよりわれらがお相手いたす」
北信愛の養子である北信景(通称、十左衛門)は、勇猛果敢な武将として知られる。 忠親は花巻城の守りを手薄にさせるため、旧毒沢(花巻市東和町)城主の毒沢義森、旧大迫 (同市大迫町)城主の大迫又三郎ら、稗貫氏の旧家臣にも蜂起させていた。
北信景ら主だった武将は、それらの平定のために城を出払っていた。意図した通りに事は運んでいたが、よもやこんなに早く舞い戻るとは思ってもみなかった。挟み撃ちされては逃げ道がなくなる。
「引け、陣を整える」
一揆勢は追走する北信景らの軍勢と交戦しながら退却し、稗貫氏旧臣の居城だった十二丁目城(花巻市)に陣を敷いた。そこも突破されそうになったため、二子城をめざしたが、老朽化した館とあって長くは持ちこたえられないと判断し、岩崎城へ向かった。南部勢はそれ以上深追いせず、兵を引き揚げた。
出羽では激闘が続いていたが、9月末、関ケ原の戦いで「東軍、勝利」の報が両陣営に届くと、上杉軍は撤退に転じた。
南部利直による岩崎城攻めは雪解けを待って、慶長6年(1601)春に始まった。 3月6日、利直は将兵四千五百を率いて福岡城(旧九戸城〈二戸市〉)を出陣。花巻城で軍議を開き、12日に岩崎城の北側を流れる和賀川までやってきた。
増水のために馬は渡ることができない。そのため横川目で大きな筏を組み、その上に馬を乗せ、浅瀬を渡った。利直は岩崎城の南西に位置し、目と鼻の先にある小高い七折館に陣を敷いた。
和賀忠親は改修した物見櫓にあがり、幟がはためく利直の軍勢を見やった。一揆勢は480ほど。打って出れば犬死するようなもの。忠親は籠城を決め込んだ。 南東に目を転じれば、夏油川の向こうにある六原(金ケ崎町)に、救援に来た伊達方の白石宗直が布陣している。水沢城主で伊達家の重臣だ。
17日、利直の重臣の桜庭直綱(北信景の兄)が騎馬武者を率いて茶臼台に進み、本丸へ進撃した。このときは一揆勢との小競り合い程度で軍を引き揚げた。
斯波氏の旧臣で、南部氏に仕えていた山王海太郎という武者がいた。この山王海が変心して一揆勢に走った。そして日ごと櫓にあがっては、利直の悪行を並べてののしった。 鉄砲の名手として知られる小屋敷修理は、背中から頭まで草で覆うと、闇に乗じて城に近づき、草地に身を潜めた。
翌日、昼近くになり、山王海は例によって櫓にあがると、両手に扇を持ち、聞こえよがしに利直の悪口を言って挑発した。小屋敷は炭を塗っていた頭をあげると鉄砲を構え、引金を引いた。山王海の胴は撃ち抜かれ、櫓から真っ逆さまに落ちた。南部勢は勝鬨をあげ、気勢を削がれた城内は鳴りを潜めた。
4月4日夜半、伊達方の侍大将・鈴木重信は、武器や兵糧を積んだ荷馬を引いて夏油川を渡った。 だが、このことは葛西氏の旧臣で、南部氏に仕えていた柏山明助に察知されていた。
川を渡ったところに中野吉兵衛らの軍が待ち受けており、一斉に鉄砲を撃ち、矢を放った。逃げまどう伊達勢に南部勢が襲いかかった。鈴木重信をはじめ二百近くもの兵が討ち取られ、川面は赤く染まった。
忠親は城を出て救援に駆けつけたくても、あまりに急な展開で間に合わなかった。城を出れば、利直の本隊が突入してくるのは必定。歯嚙みし、地団太を踏んだ。
26日、嵐がやってきて、強風が吹き荒れた。北信愛の具申により、河岸で刈り取って束にした大量の茅が、岩崎城の手前に壁のように高く積みあげられた。
「火をかけよ」 利直の命で茅の山に火がつけられた。束になった火の茅は強風に乗って宙を飛び、無数の火矢となって城へと降り注いだ。弓による火箭も放たれた。城のそちらこちらで炎があがり、火の粉が音を立てて飛び散る。
「かくなるうえは、城を捨てるしかあるまい。皆の者、なんとしても伊達領に逃れよ」
忠親は城門を開けるように命じた。外で待ち構えていた南部勢が矢を放ち、長槍で突進する。一揆勢の多くは討ち取られ、死体の山を築いた。忠親は側近とわずかな手勢に守られながら、急峻な崖を転がり落ちた。夏油川を渡り、伊達領の大森へと逃げのびた。
岩崎一揆の仔細を報告するため、南部利直は家臣に書状を託し、家康に遣わした。家康は政宗に対し、一揆の首謀者である忠親の処分を命じた。 忠親には政宗に対する恩義こそあれ、なんら恨むことはない。
和賀氏としての意地を天下に示し、武士としての矜持を保ったまま死ねるなら本望との思いがあった。
5月24日、忠親は国分尼寺 (仙台市)において潔く自刃した。側近の八重樫孫三郎、煤孫上野、小原藤五、蒲田治道 (宗現)、筒井喜助、斎藤十蔵、毒沢義森(修理)も自害した。
忠親の首は利直に送られたが、遺体は七人の忠臣とともに手厚く葬られた(主従の最期については諸説あり)。 この岩崎一揆を煽動したとして、政宗は家康から約束されていた「百万石のお墨付き」を反古にされた。
だがその後、政宗は死罪になってもおかしくはない忠親の嫡男・義弘を120石で召し抱え、志田郡松山に居住させている。忠親に敬意を払っていたことがうかがえる。
なお、義弘の弟・忠弘は岩崎城から落ち延び、磐井郡摺沢村(一関市)の小原家の養子になったとの説がある。 また政宗の側室の勝子(勝女姫・法性院)は、のちに伊達騒動で知られる一関藩主・宗勝の母だが、和賀忠親側近の毒沢義森の孫といわれ、ここでも縁を感じさせる。
更新:12月12日 00:05