「眼中の光凄まじく、夜叉羅刹とも云うべし」──鬼神にもたとえられる佐竹義重だが、その人生はまさに戦いの連続だった。関東制覇を目論む北条と幾度も戦い、奥州で急成長する伊達とも干戈を交える。そして、豊臣から徳川へ天下が移る激動の中を生き抜いた──。
※本稿は、『歴史街道』2019年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
佐竹義重は天文16年(1547)、常陸半国の守護・佐竹義昭の長男として舞鶴城で誕生した。幼名は徳寿丸。佐竹氏は新羅三郎義光の流れを引く清和源氏で、一族が佐竹姓を名乗るようになってから義重は19代目にあたる。
永禄5年(1562)、義昭が隠居し、義重は16歳で家督を継いだ。初陣は永禄7年(1564)、義昭や上杉謙信とともに小田氏治を攻めた山王堂の戦いで、見事勝利し、小田城も陥落させている。
永禄12年(1569)1月、義重は小田氏治の海老ヶ島城を攻略し、10月、手這坂合戦で勝利して小田入城。そして、宿敵となる小田原の北条氏と、干戈を交えることになる。
元亀2年(1571)4月上旬、義重は南陸奥の羽黒城に入り、白河の結城不説齋を支援する会津の蘆名止々齋らと対峙していた。この頃、義重は北に蘆名、結城、西に上杉、南に北条と争い、四面楚歌の状況にあった。
4月下旬、小田原の北条氏政が出陣し、常陸の下妻を脅かしているという報せが届けられた。同城を守るのは義重麾下の多賀谷政経である。下妻が落ちれば舞鶴城まで田楽刺しにされかねない。
義重は止々齋らと和睦交渉を行い、整ったのが5月中旬。常陸の居城には帰らず、その足で南に進み、5月21日、同盟を結ぶ宇都宮広綱とともに宇都宮麾下の今泉高光が城主を務める上三川城に入城した。北条氏政らの2万の軍勢は、上三川城から6里(約24キロ)ほど南の下総・栗橋城にいた。
5月22日、北条軍は鬼怒川を渡り、下妻城の北、大木辺りに布陣。本隊を率いる氏政は鬼怒川沿いを南に進み、下妻城から南西1里ほどの掘土山に本陣を構えた。
北条氏政は本隊から江戸衆の富永政家、同助盛、宇田川石見守ら300ほどを割き、下妻城から5里ほど南西の岩井に備えさせた。義重は宇都宮麾下の茂木治房に夜襲を試みさせたが、これは失敗に終わった。
下妻では出撃した多賀谷勢が多数の北条勢に討たれ、城内に敗走して城門を閉ざした。下妻城は簡単に落ちる城ではないが、義重は城兵を安心させるため、北条氏照勢の後方となる小貝川の東に、叔父の小野崎義昌と東義久勢の1000ほどを進ませ、さらに夜陰に乗じて城中に使いを潜り込ませて指示を与えた。
下知どおり、多賀谷政経は降伏を寄手に伝えると、案の定、北条勢の軍は弛緩した。義重の策どおり、多賀谷勢は夜明けとともに出撃し、おっとり刀の北条軍を壊乱に陥れた。
崩壊した北条軍は南に敗走。氏政は下総の岩井の辺りで軍勢を立て直そうとしたところ、安房の里見義弘が佐竹勢に呼応して小田原を攻撃するという報せが届けられた。氏政は反撃を諦めて帰途に就いた。
「北条に追い討ちをかける。我に続け!」
義重は獅子吼し、駿馬を疾駆させた。黒糸縅の甲冑を着用し、鹿角の兜を冠る義重は、真一文字にひた駆けに駆け、遂に北条勢に追い付くや、電光石火の勢いで敵中に突撃し、瞬く間に7人ほどを斬り捨てた。
「我は佐竹常陸介義重なり。北条に武士がおるならば、かかってまいれ!」
総大将でありながら、義重は自ら名乗りをあげ、次々に屍の山を築いていった。
「退け! 彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」
敵大将の首を得れば恩賞は思いのままにも拘わらず、北条勢は我先にと逃亡していった。
阿修羅のような義重の戦いぶりに、敵味方を問わず、義重を「鬼佐竹」「坂東太郎」と呼ぶようになった。この戦いで佐竹・宇都宮連合軍は、1300の北条兵を討ったという。
その後も義重は、何度も北条軍と戦った。兵力の差は北条が3倍、5倍は当たり前で、10倍近いこともあったが、そのつど侵攻を阻止した。戦場が領国に近いということもあるが、北条軍が退くまでは絶対に退かぬ強靱な意志と、戦えば負けないという自負の現われだった。
多勢を擁しても義重を下せないと悟った北条氏は、米沢の伊達政宗と盟約を結び、南北から挟撃する策をとることにした。
北に版図を広げていた義重は、南下してきた独眼龍・伊達政宗と相対することになった。
天正13年(1585)11月初旬、義重は二本松城主の畠山国王丸を救援するために出陣し、10日、須田盛秀が城代を務める須賀川城に入城した。同城には結城不説齋、相馬義胤、石川昭光、岩城常隆のほか蘆名家の重臣などが集まり、佐竹勢を含めて1万7000の軍勢となっていた。
自他ともに、義重は反伊達連合軍の総大将という認識だった。連合軍は片平城を一蹴し、安積山に本陣を構え、次なる攻撃目標を高倉城、本宮城とした。
これを知った政宗は7000の兵を率いて小浜城を出立し、高倉、本宮、渋川の各城に兵を配置し、自らは岩角城に入って備えた。
17日の早朝、連合軍が北進すると政宗は本宮城の南に位置する観音堂山に布陣した。辰ノ刻(午前8時頃)、東義久ら連合軍の先手5000が高倉城に達した。義久らは寡勢の伊達勢が出撃しないと判断し、東西から挟撃することにした。
ところが、高倉城の富塚近江守、桑折宗長らは城を打って出て義久らを急襲。混乱した義久は後退を余儀無くされた。最初は圧された義久らであるが、兵を迂回させて横腹を攻撃して逆転に成功。義久らは二百数十を討ち取って政宗本陣に迫った。
蘆名勢、須田盛秀ら5000は五百川を渡って玉井城に向かうと、鬼庭良直ら百数十と遭遇。73歳になる良直は阿武隈川に合流する瀬戸川にかかる人取橋で奮戦するが、遂に力尽きて老体を雪原に晒した。
会津勢は鬼庭勢の殆どを討ち取り、観音堂山の南に陣する亘理親子、片倉景綱の陣に向かった。連合軍は各地で優勢に戦い、観音堂山に迫る。
「儂が政宗の首を刎ねてくれる」
報せを受けた義重は本陣を発った。山を包囲されるのは刻の問題であるが、なにもせずに退いたとあっては伊達の名折れ。若き政宗は、敵に一撃喰らわせようと出撃した。義重本隊が瀬戸川を渡った時、すでに前線では伊達の本隊と鉄砲を撃ち合っていた。
「伊達の若造も、坂東太郎を見ずして首討たれるでは成仏できまい」
義重は鉄の棒を握り、馬足を北に進めた。『奥羽永慶軍記』によれば、「義重の器量、只人にあらず。威、面に表れ、髭、逆にして隙間なく、眼中の光凄まじく、夜叉羅刹とも云うべし」とあるほど激昂していた。
前進すると、栗毛の駿馬に騎乗する大きな三日月の前立をつけた兜を冠り、黒漆塗五枚胴具足を着用した武将の姿があった。政宗である。義重より早く車斯忠が伊達本隊に斬り込んだが、政宗の近習に阻まれて届かなかった。
そこに会津勢が西から政宗本隊に攻めかかったので、たまらず政宗は退却した。この時、政宗は川に落ち、あわやという時、従弟の成実に助けられて九死に一生を得た。
「政宗を逃すな!」
義重は獅子吼するが、原田宗時らの殿軍を崩せず、政宗を討つことはできなかった。敵地における冬夜の深追いは、犠牲を多く出してしまう。義重は追撃を停止させた。
その晩、酒宴が催された。義重は深酒を避けて切り上げたが、叔父の小野崎義昌は周囲の農家から女性を集めて酌をさせていた。すると、その一人が突如、義昌の脇差を抜いて心臓を抉り、そのまま逃亡した。政宗が差し向けた黒脛巾衆(忍び)の刺客だという。
翌朝の弔合戦を誓う義重であるが、18日の早朝、留守居をする嫡男の義宣から、水戸城主の江戸重通が、安房の里見義頼を引き入れて舞鶴城を襲うという報せが届けられた。
「あと一歩で政宗を討てるというに!」
義重は吐き捨てながら帰国したところ、城周辺に敵の姿はなかった。(これは御台の仕業か)悔しがるが、すでに後の祭である。
義重の正室の小大納言は政宗の叔母であった。政宗は策謀で窮地を逃れることに成功した。勝てる時に勝たねば、つけは廻ってくる。
義重は天正16年(1588)にも陸奥の窪田で政宗と戦うが、攻めきれずに撤兵した。政宗は、義重と戦うたびに強くなっていった。
天正17年(1589)正月、義重は義宣に家督を譲るが、実権は持っていた。義重は次男の義勝(義広)を蘆名氏の養子に入れ、南陸奥の支配に勤しんでいた。
奥羽支配を目論む政宗の障害は、会津の蘆名氏である。政宗は雌雄を決するべく出陣し、5月4日、安子島城を落とし、5日、高玉城を攻略して会津を目指した。
この頃、佐竹氏はお膝元の額田照通が謀叛を起こし、盟約を結ぶ宇都宮家でも麾下が背いて援軍の要請があり、対応に追われていたところに義広からの報せを受けた。
5月23日、義重は義宣とともに出立し、27日、陸奥の須賀川城に到着した。ここに義広や岩城常隆、石川昭光らも駆け付け、一万数千の軍勢に膨れあがった。
佐竹連合軍は伊達麾下の大平城を囲んでいる最中、蘆名麾下の猪苗代盛国が主家を離反し、6月2日には伊達兵を居城に引き入れた。猪苗代城から会津の黒川城まではおよそ4里。1日で優に到達できる。義広は慌てて帰城した。
6月5日、義広は義重の命令を無視して出陣し、磐梯山の麓の摺上原で政宗と対峙した。蘆名軍6000、伊達軍1万3000。
前半は蘆名軍が優位に戦ったものの、疲労が出た途端に兵の多寡が現われ、蘆名軍は敗走。義広は黒川城に逃れるものの、家臣たちは逃亡してしまったので守る兵がいない。重臣たちに促され生家である常陸の舞鶴城に落ちた。
大平城を落とした義重らは救援に向かい、郡山の守山に達したところで子細を聞いたが、すでに後の祭であった。黒川城は簡単に攻略できる城ではない。義重は三春城に鉾先を変えて包囲していた時の7月下旬、関白秀吉からの停戦命令が届けられた。「関東・奥両国惣無事令」、いわゆる平和令である。
従わなかった島津氏は九州を席巻したにも拘わらず、薩摩などの三ヵ国の所領に戻された。義重は亡き織田信長とも友好関係を結んでおり、秀吉とも書状のやりとりをしている。惣無事令のことも知っている。今度の出陣は領国を侵されたからとは伝えているが、改めて命じられたので従わざるをえない。
「黒川城は政で奪い返せばよい」
義重は義宣を説き、帰国の途に就いた。佐竹軍が帰国すると、政宗は鬼の居ぬ間にと、陸奥における佐竹麾下の諸城を片っ端から攻め取り、版図を南に拡大していた。
我慢を続ける中の天正18年(1590)3月1日、遂に秀吉は小田原の北条氏を討つために出陣。22万の兵を動員した。領内で背信者が出たので対応に追われたものの、義重は義宣を小田原に参陣させ、自身は留守居として領国の守りを固めた。
義宣は石田三成らと連絡をとりながら下野の鹿沼城を攻略して、小田原に参じ、秀吉に臣下の礼をとった。これにより、口約束ではあるが本領を安堵された。佐竹氏が早々と認められたのは北条、伊達氏と戦いぬいた兵の強さがあったからである。
すでに秀吉は徳川家康を関東に移封させることを決めており、これを東から押さえる役目を佐竹氏に任すためだという。
残念ながら会津領は蒲生氏郷のものとなったので、黒川城を奪い返すことはできなかったが、常陸一国支配を認められ、佐竹氏は54万5000余石となった。これは全国第9位の大名に列したことになる。義重の戦いぬいた精神力と政治判断が実を結んだ結果である。
義宣は豊臣家の大名として秀吉に忠節を尽くし、奉行筆頭の三成と昵懇。佐竹氏としては順風満帆であるが、朝鮮出兵をしている日本軍の戦況は芳しくなく、不満は増えるばかり。豊臣政権は長くないと義重は見ていた。
隣国の江戸には、250数万石を有する徳川家康がいる。長久手の局地戦では、秀吉に勝利したことのある武将である。秀吉亡き後、力を発揮するのは誰の目にも明白。そこで義重は家康と誼を通じ、友好関係を結んでいた。
秀吉が他界すると家康は専横を開始し、前田利家が死去するとさらに加速。家康は、藤堂高虎らを煽って三成を討つように促した。これを知った石田家臣の嶋左近は、すぐさま三成を玉造の屋敷に戻らせた。そこに義宣が駆け付け、三成を女輿に乗せて宇喜多秀家の屋敷に移動させ、さらに伏見城に護送した。
慶長5年(1600)6月6日、家康は会津攻めを発表。佐竹氏は岩城貞隆、相馬義胤らとともに仙道口から進むことになった。義宣の目付からの報告では、上杉家と石田三成が東西から家康を挟撃し、義宣が仙道口から家康の横腹を突いてとどめを刺すという。
「これまでのことを考えれば、そなたが治部(三成)に与するのも仕方なかろうが、治部はあくまでも太閤(秀吉)あっての治部。内府(家康)に勝てるはずがない。ましてや会津と佐和山での挟み撃ちなど、絵に描いた餅も同じ。
武家は家を残してこそ武家と言える。北条、武田、今川を思い出せ。そなた一人の思案で多くの者を路頭に迷わせてはならぬ。治部との関係を断ち切り、内府に従うのが佐竹のためじゃ」
義重は懇々と義宣に説いた。義宣は頷くが、心は三成とともにあるようだった。会津攻めに向かった家康は、大坂で挙兵した三成を討つため、下野の小山で反転した。東軍の家康を背後から襲う好機であるが、下野との国境近い陸奥の長沼で会津討伐軍を待ち構えていた上杉家は伊達、最上の牽制で動けない。
義宣は単独で行動できなかった。家康も義宣を敵に廻したくないので、茶の師である古田織部を派遣して説得にあたった。それでも義宣は上杉の南進を待っていた。
義宣が誠意を見せないこともあり、家康は一月近く江戸に滞在していなければならず、発ったのは9月1日のことだった。義重は義宣の尻を叩き、家臣の小貫頼久を江戸に遣わし、家康に忠誠を誓わせ、さらに川井忠遠も向かわせて岐阜攻略の戦勝祝いを述べさせた。
加えて重臣の東義久に兵300を率いさせ、中仙道を進む秀忠軍に参じさせた。こちらは、兵が足りているので、佐竹家は上杉に備えるようにと、断わられている。
運命の9月15日。家康率いる東軍は、美濃の関ケ原で三成率いる西軍に勝利した。 予想は当たったが、佐竹氏は徳川に賭けきれなかった。義重は危惧するが、徳川に対して一本の弓も引いていないので、改易などはないと見ていた。取次をしていた東義久は徳川家と昵懇、義重は義久に任せていた。
戦後処理が行われ、佐竹家が秋田への移封が決まったのは戦から2年後のことで、石高は明確にされなかった。面従腹背の態度が、家康の心証を悪くした。さらに交渉していた東義久の死も、佐竹家には不運となった。決まったからには仕方ない。義重は率先して移動し、出羽の六郷に落ち着いたが、ほどなく一揆が蜂起した。
「坂東太郎が戦、出羽の者に見せてくれる」
義重は平服のまま、300人ほどの領民を率いて秋田兵庫介ら1000の一揆勢を蹴散らし、鬼義重の名を六郷の地に轟かせた。これにより、義重存命中に一揆は起きなかった。
佐竹氏の石高が正式に決まったのは、入国から62年目の寛文4年(1664)。20万5800余石とされた。関ケ原で東軍に与していたら、恩賞を得ていたであろうが、江戸に近い常陸に在していられたかは疑問である。
東軍で高禄を得た福島、加藤、小早川、蒲生家などは滅びていった。対して西軍に与した上杉、毛利、鍋島、島津は、遠国なので幕末を迎えることができた。最良ではないが、隠居した義重の裏工作こそが佐竹家を幕末まで存続させたのかもしれない。
【近衛龍春(このえ・たつはる)】
作家。昭和39年(1964)、埼玉県生まれ。大学卒業後、オートバイレースに没頭。通信会社勤務、フリーライターを経て『時空の覇王』で作家デビュー。著書に『伊達の企て』『長宗我部 最後の戦い』 『裏切りの関ヶ原』『毛利は残った』『上杉三郎景虎』『南部は沈まず』『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』などがある。
更新:11月21日 00:05