2020年11月25日 公開
2022年06月15日 更新
金ヶ崎城址遠景
織田信長にとっての生涯最大のピンチ「金ヶ崎の退き口」。それを演出したのが、越前・朝倉義景である。
朝倉は、いかにして信長を危機に陥れたのか。対する信長は、どうやって脱することができたのか。
そして殿軍を務めた秀吉や光秀は……。
【吉川永青 PROFILE】昭和43年(1968)、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で小説現代長編新人賞奨励賞を、『闘鬼 斎藤一』で野村胡堂文学賞を受賞。著書に『奪うは我なり 朝倉義景』『第六天の魔王なり』『毒牙 義昭と光秀』などがある。
「何と仰せられました」
長政は自らの耳を疑った。織田家と我が浅井家は盟友ではなかったのか──その驚きに、信長が怪訝な面持ちを向けた。
「おまえは我が妹婿ぞ。浅井の安泰も、俺が六角義賢を退けてやったからだ。織田の家臣同様、我が下知に従うのが筋ではないか」
六角の名を出され、長政は言葉に詰まった。
父・久政が当主であった頃、浅井は南近江の六角家に押され、従属を余儀なくされていた。それを変えたのは長政であり、そして確かに信長であった。
5年前、永禄8年(1565)のこと、長政は信長の妹・市を正室に迎えた。反対する父を、琵琶湖の竹生島に幽閉した上での婚姻である。その頃の信長は、美濃の斎藤龍興を包囲する盟友を求めていた。長政はこれに助力し、そして信長は2年後に斎藤を滅ぼした。
さらに翌年、信長は上洛して足利義昭を将軍位に押し上げた。この上洛に際し、道を阻んだ六角を退けている。織田の力なくして浅井の今はない。しかし。
「朝倉は浅井が盟友、決して攻めぬとお約束なされましたろう」
どうにかそれだけ返すも、信長は「聞き分けよ」と目を吊り上げた。
「朝倉は上洛の指図に従わぬばかりか、城を固めて戦支度をする有様だ。討つのは俺のためではない。上様の世を安んじ、天下に静謐をもたらすためである」
義昭に将軍位が宣下された後、信長は諸大名に上洛を指図していた。将軍に従う者と逆らう者を見極めるためであった。
もっとも、口実に過ぎない。指図に従わない大名は、朝倉だけではないのだ。にも拘らず朝倉を攻めるのは──。
「公方様を奉じてご上洛の折、朝倉が兵を出さなかったがゆえでしょうや」
「それとて上様を蔑ろにする行ないぞ」
吐き捨てて、信長は座を立った。去り際の眼差しが語っている。浅井は我が家臣も同じだ。黙って従え、と。長政は強く奥歯を嚙み、飛び出しそうになる怒声を必死に押し止めた。
*永禄13年(1570)4月20日、信長の兵が京を発ち、越前西部の敦賀へ向かった。朝倉家の本拠・一乗谷にその報せが届いたのは24日、元亀と改元された翌日であった。
「城を固めて、かえって織田を呼び込んだようなものじゃ。如何様になさるおつもりか」
同名衆の朝倉景鏡が嚙み付いてくる。評定の席に嫌なものが漂った。当主を面罵するなどこの男くらいだろう。が、主座の義景は柳に風と受け流した。
「どうもこうもない。迎え撃つまでじゃ。其方は我が従兄ゆえ、大いに力を与えておる。此度も働いてもらうぞ」
集った面々が「すわ」と緊張を湛えた。
「それでは敦賀に援軍を」
「急ぎ、兵を整えまする」
義景は「ふむ」と頷いた。
「敦賀には、金ヶ崎に景恒がおる。4日の後で良かろう」
万座が声を失った。どの顔にも「遅すぎる」「何を言っているのか」と大書されている。
「どうした」
鷹揚な笑みで問う。家臣たちはそれによって無言から解き放たれた。
「金ヶ崎は4500、織田は徳川の援軍まで併せて3万なのですぞ」
「4日もかけては見殺しにするようなもの。景恒様は同名衆ではござりませぬか」
「織田の出陣は予め見通しておったことにて、兵はすぐにも整いまする」
咎められてなお、義景は「はは」と笑った。
「では任せる。支度が整い次第、出陣じゃ」
評定が決し、皆が下がって行く。どの顔にも戸惑い、或いは義景の器を危ぶむ思いに満ちていた。見送りつつ、義景は口の中で「阿呆しかおらぬ」と呟いた。
「切り札を待つための4日じゃと申すに」
最前からの笑みが、にたあ、と不敵なものに変わった。
更新:11月21日 00:05