2020年11月25日 公開
2022年06月15日 更新
「注進、注進!」
物見が戻り、本陣に駆け込んだ。信長は床几に掛けたまま「申せ」と応じる。10歩も向こうに跪く姿が、改めて頭を下げた。
「朝倉義景が兵、いったん府中まで出たるも、一乗谷に戻ってございます。透破衆の申すには、何やら騒動が起きたとか」
信長は「これはまた」と笑った。
「義景とは、かくも盆暗な男か。攻め込まれておると申すに、揉めごとひとつ抑え込めぬとは」
金ヶ崎城を囲み、今朝から攻め掛かっていた。未だ落とせずにいるのは、敵に援軍があると見越し、背後に警戒していたからだ。しかし、これなら総攻めで良い。信長は諸将に向けて「支度せい」と呼ばわった。
すると、木下秀吉が「お待ちを」と声を上げた。
「そりゃあ如何なもんか、思いますがね。手傷を負うた兵も、ぎょうさんおりますで」
昨日、金ヶ崎の出城・天筒山城を落としていた。もっとも、天険を利した要害を力押しで攻めたがゆえに、兵の消耗も大きかった。
「援軍が来にゃあて分かったんなら、城方に教えてやろまい。きっと、諦めて降りますがね」
その役目、ぜひともこの秀吉に──進言を受けて、信長は「面白い」と頰を緩めた。
果たして城方の大将・朝倉景恒は説得を受け容れ、城を明け渡して退去した。以後、織田勢は疋田城など敦賀郡内の城を落としていった。
「いざ、義景が首を上げに参るぞ」
4月28日、信長は意気揚々と軍を発した。
敦賀から朝倉の本拠・一乗谷に至るには、木ノ芽峠を越えねばならない。通りにくい道──切所には伏せ勢が付きもの、物見を放ちながらの行軍が捗らない中、その報せは届いた。
「何だと? もう一度、申してみよ」
「は……はっ。浅井長政、我らを裏切り朝倉に付いたらしく」
「たわけ。何かの間違いじゃ。斯様な注進を入れるなど、物見として不覚悟である」
信長は取り合わず、伝令に叱責を加えた。
長政はこの戦に際し、近江に留まって後詰の任に当たりたいと申し出ていた。それを許したのは、やはり義弟への情ゆえであった。長く好誼を通じた朝倉と槍を交えさせず、かつ織田に従う形を作ってやろうとしたのだ。
あれは賢い男だ。我が心配りを踏みにじるはずがない。そう信じていた。
しかし。長政離反の報は、以後も続々と届けられる。次第に青ざめてゆく信長の前に、援軍として参陣した徳川家康が進み出でた。
「ひとつや二つの報せなら、誤りであったやも知れませぬ。されど、こうも続かば見過ごせますまい。しかも報せが届くごとに、浅井勢は我らの背に近付いておりまする」
もはや一刻の猶予もない。だが図らずも、捗らぬ行軍が僥倖であった。すぐに返せば命を落としはすまい──家康の説くところに、信長は力なく頷いた。
そして悟った。朝倉義景が足踏みしていたのは、先んじて長政を語らっていたからだ。凡愚ではない。これをこそ、狙っていたとは。
「兵を返し、京へ戻る」
もっとも、それとて難しい。既に長政は兵を動かしているのだ。大軍を率いて戻れば行軍の足は遅くなり、浅井勢と鉢合わせる目が大きくなろう。そして何より、長政離反の報は既に兵たちにも知れ渡っている。浮き足立った兵の脆さは信長も承知していた。10年前、桶狭間に今川義元を討ち果せたのも、向こうに乱れがあったからだ。
同じことを思い、危うしと見たのであろう。2人の男が声を上げた。
「殿はお手回りの者のみ連れ、疾く返されるがよろしい。それがし先駆けして誰かを説き伏せ、道中を助けさせましょうぞ」
松永久秀である。そして、もうひとりは木下秀吉であった。
「殿軍、わしに仰せ付けてちょう。きっと殿様の背中を安んじて差し上げますで」
信長は2人に向けて「頼む」と頷いた。そして松永を奔らせ、秀吉の他に池田勝正と明智光秀を残すと決めると、自身は手近にあった小姓や馬廻、母衣衆など10人ほどを供に連れ、落ち延びて行った。
信長不在の織田勢と徳川勢は、木ノ芽峠から引き返すと、金ヶ崎城に入って一夜を明かした。すぐに退かなかったのは、幾らも進まぬうちに夜を迎えてしまうからである。ただでさえ兵が狼狽えている中、夜討ちを受けることだけは避けねばならなかった。
「然らば池田殿、明智殿、木下殿。我らはこれにて。ご武運をお祈りしておりますぞ」
翌4月29日、夜明けと共に徳川勢が退却した。次いで織田本隊が金ヶ崎を発つ。残された殿軍の兵は500であった。
「わしは徒歩勢を視よう。明智殿と猿は鉄砲じゃ」
池田勝正が指図する。和田惟政・伊丹親興と共に摂津守護を任された身ゆえ、殿軍の中では最も格上であった。秀吉もこの男を大将と認めていたが、これには首を横に振った。
「わしゃ鉄砲なんぞ分からんがや。そこは明智殿に任せよまい」
本圀寺の変──かつて三好三人衆が将軍・足利義昭を京の本圀寺に襲った折、光秀は自ら鉄砲を放って奮戦している。放つ頃合の計り方や、鉄砲方への指図も巧いだろう。秀吉はそう言って断り、自らは足軽を率いると申し出た。
「池田様は、わしに『掛かれ』『退け』言うて、指図してちょう」
光秀を向き、ご辺もそれで良いかと問う。すると、苦笑が向けられた。
「矢面に立たば、殿が覚えめでたく功多し。それゆえかな?」
「ありゃ。分かってまったか」
池田と光秀は「逞しいことだ」と呆れつつ、秀吉の進言を容れた。
陣容が定まり、殿軍も行軍を始める。すると、ほどなく敵が追い慕って来た。数は3000ほどか。旗印からして朝倉勢の先手衆だが、若狭や近江の一揆衆も含まれているらしい。
まずは足を止めるべしと、光秀が「放て」と叫ぶ。鉄砲の斉射に続いて、池田が「掛かれ」と大声を飛ばした。
「おみゃあら、やったろまい!」
甲高く捻じれたような声を猿の如く張り上げ、秀吉は真っ先に飛び出した。これに鼓舞されたか、足軽衆も奮い立って鬨の声を上げ、後を追って来た。
「当たれゃあ」
足軽たちが続いたのを見て足を止め、手にした槍で敵を指し示す。兵の長槍が振り下ろされ、鉄砲に怯んだ朝倉勢を叩き据えた。
だが如何にせん、こちらは落ち延びる兵である。敵の乱れはすぐに収まり、猛烈な勢いで押し返してきた。
と、池田が「猿、退け」と声を飛ばしてくる。秀吉は兵に指図して戦いながら下がる。そして光秀の「木下殿」を聞くと、兵たちに向けて声を限りに呼ばわった。
「しゃがめ、おみゃあら。早う」
応じて足軽たちが身を低くする。その頭の上を、鉄砲の轟音が突き抜けて行った。
殿軍は鉄砲を撃ち続け、足軽衆が弾込めの時を稼ぎながら、追撃を食い止めて撤退した。織田本隊が既に見当たらなかったためであろう、朝倉勢は深追いを避けたようであった。
信長は朽木元綱──松永久秀が味方に引き入れた──の助けを得て、4月30日、京に辿り着いた。徳川勢も無事に退き果せ、さらには織田本隊も帰京するに至った。
しかし、負け戦で気が萎えた織田の足軽衆は、既に多くが四散していた。態勢を整える必要に迫られた信長は、鈴鹿山脈の千草越えで岐阜に帰還する。一方の朝倉は5月11日、信長を追い詰めるべく、朝倉景鏡を大将とする大軍を発した。
以後、織田と朝倉・浅井連合の争いは激化の一途を辿る。同年6月末の「姉川の戦い」を経て、9月半ばから年末にかけて「志賀の陣」へ──3年後に朝倉・浅井が滅ぶまで続く死闘の皮切りこそ、この「金ヶ崎の戦い」であった。
更新:11月24日 00:05