2020年03月15日 公開
2023年10月04日 更新
金ヶ崎城址遠景
武功を挙げた地、居住したと伝わる地、いまも遺徳がしのばれている地……。福井県の明智光秀ゆかりの地を訪ねた。
写真:近戸秀夫
現地に行かなければ、わからないことがある──。
そういわれることがあるが、謎多き明智光秀の越前時代は、まさにそうではないかとの思いで、福井県を訪ねた。
まずは、敦賀方面から福井県をめぐるべく、金ヶ崎城址に向かう。元亀元年(1570)4月、「金ヶ崎の退き口」の舞台となった場所で、この時、木下秀吉とともに殿として活躍したのが、光秀であった。
城址は、JR敦賀駅から車で10分ほど。小高い丘で、いかにも城といった趣だ。ハイキングコースが整備されており、歩きながら、城の雰囲気を味わうことができる。
緑豊かな道を進んでいくと、道幅が狭まったり、斜面の傾斜が急なところもあり、かつて城だったことがまざまざと感じられる。
城址内には、武将たちが月見をしたという月見御殿があり、敦賀湾を一望できる。
光秀も当時、生死を賭けた一戦を前にして、月や海を眺めたのだろうか。しばし海に目をやりつつ、その心境に想いを馳せた。
金ヶ崎城址の次は、坂井市の称念寺へ向かう。高速道路にのれば、北東へ車で一時間ほどの道程だ。
光秀と同時代を生きた同念上人が記した『遊行三十一祖京畿御修行記』によると、光秀は称念寺の門前に十年間住んだという。
ご住職の高尾察誠さんによると、称念寺は北陸における時宗の拠点というだけでなく、新田義貞の墓所で、朝廷や足利将軍家の祈願所でもあったという。
当時の敷地は今より十倍ほど広く、17の塔頭を擁していたそうだ。
しかも、大きい寺というだけではない。「長崎」「舟寄」という地名が残るように、かつては舟運で栄えた土地で、称念寺も舟運業や土倉(金融業)を手掛けていた。
そんな人と物の往来が盛んな地で、光秀は仕官の機会を探りつつ、様々な情報を集めていたのではないか――高尾さんはそう語る。
寺には、妻・煕子との逸話も伝わっている。寺子屋の師匠をしながら仕官の機会を探る光秀は、称念寺の住職の力添えで、朝倉家の家臣と連歌の会を催す機会を得る。
資金がない光秀だったが、煕子が用意した酒肴で会は大成功。これによって仕官が叶うが、資金は、煕子が自慢の黒髪を売って用立てたものだった……。
江戸時代、当地に赴いた松尾芭蕉はこの伝承に触れ、「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでおり、境内には句碑が建つ。
苦しい浪人生活の中、光秀はこの地で妻と支え合い、雌伏の時を過ごしていたのかもしれない。
寺の近くにはもう一か所、ゆかりの場所がある。寺の500メートルほど北の日東シンコー株式会社の敷地には、光秀が仕えたという黒坂備中守景久居館趾の碑が建つ。
更新:12月10日 00:05