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金ケ崎、称念寺、一乗谷…福井県に明智光秀の足跡を求めて

2020年03月15日 公開
2023年10月04日 更新

『歴史街道』編集部

「あけっつぁま」と遺徳がしのばれている地

明智神社

「光秀が住んでいた」と伝わる場所は、福井県内にもう一か所ある。

福井市東大味町の明智神社が、その地である。称念寺からは車で南へ約40分ほど。

明智神社には小さな祠があり、地元の人々は「あけっつぁま」と呼んでいる。

神社を管理する福井市明智神社奉賛会の方々に話を伺うと、光秀はこの地に、永禄5年(1562)から永禄10年(1567)までの間、居を構えていたという。

神社近くの古刹・西蓮寺には、柴田勝家とその弟・勝定が天正3年(1575)に発給した、住民を保護する内容の安堵状が伝わっている。越前では朝倉家滅亡後も、織田軍による一向一揆掃討戦などが展開されていた。そのため、その戦禍を耳にした光秀が、かつて暮らした東大味を慮り、柴田兄弟に安堵状を頼んだものと考えられている。

そうした光秀の遺徳をしのび、光秀の死後、明智屋敷跡に住む三軒の農家は、光秀の秘仏を守り続けた。そして明治19年(1886)、祠を立て、その秘仏を奉ったという。

伝承はそれだけではない。東大味では、「黒の揚羽蝶は捕ってはならない」という言い伝えがあるという。それは、妻・煕子の化身だからだそうだ。

「逆臣」と語られがちな光秀だが、この地では夫婦そろって、今でも人々から崇敬されているのである。

明智神社近くには、一乗谷へと通じる朝倉街道がある。石畳が残る古道で、当時は、一乗谷へ向かう大手道だったそうだ。光秀もこの石畳を踏みしめ、一乗谷に向かったのだろうか。

朝倉街道

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