明智光秀はなぜ、美濃から越前に向かったのか。 そこで何をしていたのか。そしてなぜ、足利義昭と 織田信長の側近くに仕えることになったのか。生国を追われた 明智光秀が、世に出るまでの空白の期間に、いったい何があったのか。大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証担当者が読み解く。
※本稿は歴史街道 2020年4月号特別企画「明智光秀と越前」より転載したものです。
明智光秀が生国の美濃を離れ、越前に赴いたのは、弘治2年(1556)の「長良川の戦い」が原因だと考えていい。
長良川の戦いは、斎藤道三と息子の義龍が争い、道三が敗死した戦だ。注目すべきはその後のことで、光秀の居城・明智城が、義龍の軍勢に攻められて落城しているのである。
つまり光秀は、勝者の義龍に敵視され、美濃にはいられなくなったので、越前に逃げ込んだ……。そう考えてよいだろう。
江戸時代に書かれた『明智軍記』には、奥州の伊達氏や中国の毛利氏などを武者修行してまわり、越前に落ち着いたとあるが、それは信用できない。美濃から越前に直接向かったはずだ。
そう考える理由は、美濃と越前が「近い」からである。
まず、距離が近い。現在、岐阜県から福井県に行くには、鉄道も道路も迂回しているので遠いように感じる。しかし、当時の標準的なルートは違う。油坂峠や温見峠を越えれば、美濃から越前に直接入ることができ、文字通りの「隣国」なのだ。
それに加え、越前の戦国大名・朝倉氏と美濃の守護だった土岐氏は姻戚関係である。
また、土岐氏の居城だった大桑城の城下町には「越前堀」という名前の堀があり、越前の技術が美濃に入っていた形跡もうかがえる。軍事技術の交流があったとすれば、「敵対していない隣国」だったことになる。
こうしたことを踏まえると、光秀が直接、美濃から越前に入った可能性は高い。
当時の越前は、朝倉氏初代の孝景から数えて五代目の義景が、一国をほぼ支配していた。
義景は、「信長に敗れた武将」というイメージで見られがちだが、一族を重要拠点に置き、家臣団はしっかりまとまっていた。一向一揆との戦いはあったにせよ、他国から攻められることも少なく、越前は当時、比較的安穏な地域だったといえる。
さらに言えば、朝倉氏は単に安定した戦国大名というだけではない。
越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川文化とならび、「戦国三大文化」と称される。つまり文化面でも、繁栄を謳歌する大名であった。
光秀はこうした背景を踏まえて、越前に行こうと考えたのだろう。
『明智軍記』には、明智光秀が朝倉義景から五百貫の知行を与えられ、鉄砲寄子百人を配下に置いたとある。
しかし、一乗谷に光秀の屋敷跡は見あたらないため、それほどの厚遇を得たとは考えにくい。
私が史実とみているのは、時宗の称念寺(現在の福井県坂井市丸岡町長崎)の門前に十年住んだ、という記録だ。これは、称念寺の関係者である同念上人が、『遊行三十一祖京畿御修行記』に記したものである。
天正8年(1580)、同念が奈良で遊行する際、梵阿という僧に取りなしを依頼し、梵阿は織田家で立身していた光秀を通じて、奈良を領する筒井順慶に頼む。そのとき梵阿が光秀と旧知の関係であることを説明する箇所に、「惟任(光秀)方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とあるのだ。
同念は光秀と同時代の人であり、『遊行三十一祖京畿御修行記』は史料としての信頼性が高い。また称念寺は街道沿いに位置し、他国からやって来た人間が住み着きやすく、その点でも説得力がある。
称念寺の門前で暮らしたとすると、そこは一乗谷から遠く、その時点では、光秀は朝倉氏に仕官できていなかったと思われる。
では、十年もの間、何をしていたのか。いわゆる寺子屋の師匠のようなことをしていたのではないかと、私は推測している。
それというのも、越前の敦賀で、弘治元年(1555)に旅の僧を庵に住まわせ、子どもたちに文字を教えさせたという記録(「刀禰仁吉文書」『敦賀郡古文書』)があるからだ。美濃から落ち延びてきた光秀にも、それと同様なことがあったのではないだろうか。
ともあれ、屋敷の場所、待遇など、史料的に裏づけられない点は多いが、光秀がやがて朝倉氏に仕えたことは確かであろう。
長良川の戦いがあった弘治2年に越前に入り、「称念寺の門前に十年住んだ」ことを前提に計算すれば、仕官の時期は永禄9年(1566)前後となる。
そして、足利義昭と細川藤孝が越前に転がり込んできたのは、永禄9年の9月のことであった。
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更新:11月23日 00:05