2020年02月10日 公開
2022年06月22日 更新
現在発売中の月刊誌『歴史街道』2020年2月号では、『明智光秀 乱世を生き抜く力』と題して、様々な角度から明智光秀の人物像に迫っている。大河ドラマ『麒麟がくる』主演の長谷川博己氏のグラビア&インタビュー、最新の研究動向、「本能寺の変」を歴史作家はいかに描いてきたのか、などなどである。その中で、『麒麟がくる』の時代考証担当をつとめる、小和田哲男氏による総論の一部を紹介しよう。
明智光秀は、「本能寺の変で織田信長を討った男」として知られる。だが、その人生はというと、謎だらけといってもいい。
よく「敗軍の将、兵を語らず」というが、敗者は正しい伝記さえ残してもらえないことが多々ある。光秀はその典型といってよく、生まれた年も場所も、父母の名前も正確にはわかっていない。
そして、実像がよくわからないからこそ、光秀は「謀反人」「裏切り者」というイメージで語られがちだ。
だが、そうした光秀像は、正しいのだろうか。長年調べてきて思うのは、光秀が稀有な名将であり、本能寺の変を起こしたのも、彼なりの考えがあったということだ。
だから私は、そういう「本当の光秀像」を後世に伝えなければならないという、歴史家の使命みたいなものを感じている。
それについて語るためにも、まずは光秀の謎多き人生について、私見を交えて辿っていきたい。
生年は享禄元年(1528)とも永正13年(1516)ともいい、出生地も諸説あるが、美濃であることは間違いないと考えている。
戦国時代の美濃の守護は土岐氏であるが、光秀が世に出てくるころは、斎藤道三が実権をにぎっていた。
この道三と光秀の関係も、大きな謎だ。史料の中には、道三の奥方を明智光秀の父の妹、つまり光秀の叔母とするものがある。
これは、信長と光秀の関係を考えるうえでも重要なポイントで、その縁戚関係は事実の可能性もある。例えば近習のようなかたちで、光秀が叔母の夫である道三のそば近くで、薫陶を受けたこともあったかもしれない。
弘治2年(1556)、道三が長良川の戦いで嫡男・義龍によって討たれているが、光秀が道三方に与したとする史料はなく、中立的立場だったのかもしれない。
もっとも、義龍からは敵とみなされたのだろうか。同年9月、光秀は義龍軍によって、明智城に攻められている。
この時、光秀には二つの道があった。ひとつは城を枕に討ち死にすること、もうひとつは逃げて生き延びることである。この時代の武士は後世に恥を残さぬよう、自害するのが一般的だ。
だがこの時、光秀の叔父であり、補佐役でもあった明智光安は討ち死にし、光秀は落ち延びた。おそらく、光安が光秀にお家再興の夢を託し、脱出させたのだろう。
この落城時の経緯は、良質ではない史料に記されているため異論もあるかもしれない。しかし複数の史料を精査すると、このようなこともあったと考えてもよいのではないだろうか。