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謎に満ちた明智光秀 「本当の人物像」とは?

2020年02月10日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)


坂本城址にたつ明智光秀像
 

なぜ、足利義昭と信長に用いられたのか

その後の光秀の足取りについて、『明智軍記』は諸国武者修行に出たとする。しかし、それは違うのではないか。

近年、福井県坂井市の称念寺の門前で、光秀が10年間暮らしていたとする史料が出てきた。そうだとすれば、光秀は美濃から越前に落ち延び、称念寺の門前で寺子屋の師匠のようなことをして、のちに朝倉義景に仕えるようになったのではないか。

やがて、兄である13代将軍・足利義輝を殺され、幕府再興を目指す足利義昭が、朝倉家を頼ってくる。

それは永禄9年(1566)のことで、義昭には細川藤孝が近侍していた。光秀の先祖は室町幕府の奉公衆、つまり御家人とされる。おそらくそれを知った藤孝を通じて、光秀は義昭の家臣に加えられることになったのだろう。

そして義昭は、朝倉家を見限り、美濃を制圧した信長を頼ることになる。

この時、信長を頼るよう進言し、信長との仲を取り持ったのが、光秀ではないだろうか。

ここで、光秀の縁戚関係を思い出していただきたい。信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)だが、その生母が光秀の叔母であれば、光秀と濃姫は従兄妹にあたる。

そうすると、義昭と信長が結びついたことも、信長が光秀を登用したことも、光秀の縁戚関係が生かされたと考えられるのだ。

ともあれ永禄11年(1568)、信長は義昭を擁して上洛する。

光秀もそれに加わり、翌永禄12年(1569)には、義昭の仮御所である本圀寺に攻めてきた三好三人衆と戦っている。

その時の『信長公記』の記述に、「明智十兵衛」の名がある。ここに初めて、光秀は良質な史料に、その名を現わすのである。

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