2020年02月10日 公開
2022年06月22日 更新
山崎合戦古戦場碑
信長と義昭の上洛後、光秀は双方に仕えながら活躍していく。
元亀元年(1570)には、信長の越前攻めに従軍するが、信長に離反した浅井長政によって挟み撃ちにされそうになる。この時光秀は、羽柴秀吉とともに「金ヶ崎の退き口」と称される撤退戦で武功を挙げた。
翌元亀2年(1571)には比叡山焼き討ちでの功績が認められ、近江の志賀郡を与えられて坂本城の城主を任されている。
私はこれを、織田家臣団における「一国一城の主」の第一号と評したい。
それまでも、織田家譜代の柴田勝家や丹羽長秀が城主に任じられた例はある。しかし、城を任されただけで、周囲の土地の支配権までは認められていない。
それに対して光秀は、志賀郡の支配も任されており、大名並みの処遇をされたといえよう。
外様の光秀がなぜ、並みいる織田家臣団を差しおいて出世できたのか。それは光秀が、ほかの家臣にはない能力の持ち主だったからではないだろうか。
光秀の育った美濃は臨済宗の大きな寺が多く、そこで兵法や和歌などを学び、教養を身につけていたのだろう。
光秀は義昭側近の細川藤孝と密接な関係を築き、朝廷関係者とも様々な交渉を行なったと考えられる。
教養がなければできないことで、だからこそ、信長から京都奉行も任されたのではないか。勝家や秀吉らの尾張以来の家臣は、そういう朝廷との折衝が不得手だったろう。
光秀は教養面だけでなく軍略面でも、信長から評価されたに違いない。光秀が任された志賀郡は比叡山のふもとにあたり、軍事的にも重要だからだ。
そして元亀2年ごろに、光秀が義昭のもとを離れ、織田家臣に専念したことも、信長を喜ばせたに違いない。
信長は光秀に、義昭に対する目付のような役割をさせ、光秀も期待に応え、義昭の動向を知らせていたのではないか。そして最終的に、織田家臣に専念することで、信長からの評価を高めたのだろう。
足利義昭が信長に追放されたのち、光秀は天正3年(1575)、信長から丹波計略を命じられている。
天正7年(1579)に丹波を平定すると、翌天正8年(1580)には丹波一国を与えられた。丹波は29万石ほどであり、志賀郡とあわせると、織田家臣団の中でもトップクラスといえる。
さらに天正9年(1581)、京都で御馬揃えが挙行され、約6万の織田軍が行進している。この時、信長から差配を任されたのは、光秀であった。
おそらく光秀は、名実ともに織田家臣団のトップになったと、晴れがましい気分に包まれたことだろう。
その後も天正10年(1582)正月までは、光秀が信長に忠誠を尽くす様がうかがえる。
ところが、それからわずか5カ月後の天正10年6月、光秀は本能寺の変を引き起こすのである。
更新:11月21日 00:05