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明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

2020年03月13日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

いかにして足利義昭と織田信長との知遇を得たか

その前年、永禄8年(1565)5月、将軍・足利義輝が三好三人衆らに襲撃され、殺害される。

そのとき、奈良の一乗院門跡だった義輝の弟・覚慶(足利義昭)も殺されそうになった。

これを、奉公衆として義輝に仕えていた細川藤孝が救い出し、近江国甲賀郡の和田惟政が匿う。

当初、義昭は近江の六角承禎を頼って上洛の兵を催し、将軍位につこうとしたが、承禎が乗り気でなかったようだ。

そこで、織田信長、上杉謙信などに呼びかけるが、信長は美濃の斎藤龍興、謙信は甲斐の武田信玄と対峙していて、義昭の要請に応じることができなかった。

永禄9年8月、義昭は縁戚関係にある若狭の武田義統のもとへと赴くが、義統には義昭を担いで上洛する力がない。そのため早々に見切りをつけ、越前の朝倉義景のもとにやってきたのである。

しかし、義昭の越前滞在は永禄11年(1568)7月まで続いたが、あてにしていた義景は動いてくれなかった。

この間に、明智光秀は義昭主従と接触したわけだが、室町幕府の奉公衆の中に「明智」という名字の人物がいることから、おそらく藤孝が「明智の一族か」と光秀に興味をもち、懇意になったと思われる。

永禄11年に入ると、義景のひとり息子・阿君、その母である側室・小宰相が立て続けに亡くなる。そうした身内の不幸が重なり、義景が義昭を奉じて上洛の兵を挙げることは、余計に期待できなくなった。

一方、越前の外に目をやると、前年の永禄10年(1567)8月、織田信長が美濃を制していた。

そこで光秀が、先行きの見えない義昭主従に対して、「日の出の勢いにある織田を頼ったらどうか」と進言したのではないだろうか。

それというのも、光秀は信長の正室・濃姫(帰蝶)と従兄妹だったと考えられるからだ。光秀はその縁戚関係を使って、仲介の労を執ることを申し出たのだろう。

いずれにせよ、光秀が信長を訪ね、義昭を上洛させるための交渉に携わったことは間違いない。藤孝に送った信長の手紙に、双方の間に立つ者として「明智」の名前が出てくるからだ。

それは、永禄11年6月と8月の手紙である。どちらも年が書かれていない「無年号文書」で、かつては元亀2年(1571)のものとされたが、現在は信長が義昭を擁して上洛する前の永禄11年と比定されている。

この時点で光秀は、朝倉氏の家臣でありながら、義昭の近臣として、藤孝と相談しながら動いていたのである。
 

一躍世に躍り出た光秀

永禄11年7月、足利義昭は越前・一乗谷から、美濃の立政寺に移った。明智光秀は義昭の身辺警護のような形で従ったと思われる。

9月に織田信長が上洛戦を開始し、抵抗する近江の六角氏を排除。そして、美濃から義昭を迎えて、同月26日に京都に入った。

足利義輝を殺し、畿内に勢力を張った三好三人衆は阿波に逃げ、松永久秀らは信長に降る。これで収まったと考えたのか、信長は10月18日に義昭が征夷大将軍に任じられたあと、主力を率いて岐阜に戻ってしまう。

すると永禄12年(1569)正月4日、三好三人衆らが阿波から上洛の兵を挙げ、堀川の本圀寺を仮御所とする義昭を襲撃する。

それを防いだ者の中に、「明智十兵衛」の名と、「敵を射た」ことが『信長公記』に記されている。

「射る」は弓だけでなく、鉄砲でも使われる。光秀は鉄砲を使って防戦したと考えられるが、この働きが信長の目にとまったのだろう。信長は光秀を家臣に取り込み、光秀は義昭と信長の両方から知行をもらう立場になる。

これを私は「両属」と呼んでいるが、信長は光秀に義昭の監視役を期待していたので、光秀にしてみれば複雑な立場ではあった。

その義昭はというと、当初は信長に感謝していたものの、自分を差し置いて政治を執り行う信長に不満を持ち始める。もっとも初めは、愚痴めいた手紙を地方の戦国大名に送る程度だった。しかしそれが高じて、信長の排除に動き出す。

結局、天正元年(1573)に義昭は信長によって追放されることになるが、両者の対立が戦という形で火が着いたのは、元亀元年(1570)4月の越前朝倉攻めである。

朝倉義景が上洛に応じなかったことを名分として、信長は越前に攻め込み、破竹の勢いで進軍した。しかし、妹婿である浅井長政が朝倉方に加わったことで、状況が一変し、信長は絶体絶命のピンチに陥る。

だが信長は有名な「金ヶ崎の退き口」を成功させ、危機を脱する。この時、木下秀吉、池田勝正とともに殿を務めたのが明智光秀である。

それを受け信長は、「光秀には武将としての力量もある」と見定めたのだろう。朝倉・浅井連合軍を相手に、元亀元年12月まで続いた「志賀の陣」で宇佐山城主・森可成が討死すると、その後釜の城主として光秀を抜擢するのである。

宇佐山城は京都と近江の境に位置し、京都を押さえる上で重要拠点といってもいい。光秀はそこを任せるに足る人材だと、信長は考えたわけだ。

光秀は翌年の比叡山延暦寺焼き討ちでも活躍し、論功行賞で志賀郡を与えられ、比叡山麓の坂本に城を築く。

城の周辺の土地を任されることを「城付知行」といい、私は光秀の待遇を「一国一城の主」とみなしていいと考えている。

志賀郡の知行を得て、坂本城主になった光秀は、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛など譜代重臣を追い抜き、織田家臣団における「一国一城の主」第一号に躍り出たのである。

           *    *    *

天正元年に織田信長が朝倉氏を滅ぼしたとき、明智光秀は加賀まで兵を進め、一時的ではあるが、手取川より南の地域で代官に任ぜられた。これは上杉謙信と対峙する立場に置かれたことを意味する。

加賀の代官にしても、宇佐山城主にしてもそうだが、信長に仕えてから、光秀は最前線を任されている。それだけ、信長は光秀を高く買っていたのだ。

信長から評価されるだけの力を、光秀がどこで身につけたのかはわからない。しかし基本的には斎藤道三に薫陶を受け、武将としての器を磨いたのではないかとも思う。

そして、もう一つ考えられるのは越前時代である。称念寺の門前で暮らした十年は、生活的に苦しかったはずだ。

それでもくじけることなく機会を待ち望み、有り余る時間を使って、『孫子』、『六韜』といった兵法書を読み込みながら、一生懸命に自己研鑽に励んでいたのではないだろうか。

それがのちに、足利義昭、細川藤孝との関係づくり、信長による抜擢と活躍につながったとするならば、越前で過ごした十余年は雌伏の時ではあっても、決して無駄ではなく、光秀を飛躍させる重要な期間だったといえよう。

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