丹羽長秀役の池田鉄洋さん
戦国という激動の時代。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「三英傑」の華々しい活躍は、歴史の教科書や小説、ドラマなどで幾度となく語り継がれてきました。
しかし、その巨大な歴史のうねりの背後には、その地域の発展や主君の危機を救うために命を懸けた「知られざる功労者」たちが数多く存在します。こうした名もなき英傑たちの足跡を訪ね歩く旅には、通常の史跡巡りとは一線を画す、奥深い魅力と知的な興奮が詰まっています。
北陸の冬が本気を見せた2月初旬。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で丹羽長秀役を務める俳優の池田鉄洋(いけだてつひろ)さんが、長秀の最後の領地だった越前(現在の福井県)で、ゆかりの地を訪ね歩きました。その様子をおとどけしましょう。
信長家臣団のなかで剛毅な武将として名高い柴田勝家
「米五郎左(こめごろうざ)」――。織田信長からそう評され、家中随一の器用さと安定感を誇った丹羽長秀。「米五郎左」という異名は、お米のようにいなければ困り、どんな場面でも役立つという彼の万能さと誠実さを象徴しています。
柴田勝家とともに「織田家臣団の双璧」と称された名将ですが、越前における彼の足跡は、勝家の強烈な個性の影に隠れがちです。しかし長秀が、乱世によって荒廃した北庄(きたのしょう。現在の福井市中心部)の復興と整備に尽くした功績は、極めて大きいといえます。
池田さんの旅の始まりは、JR福井駅からほど近い北庄城跡(きたのしょうじょうあと)。現在は柴田神社として整備されています。ここは、長秀にとって極めて複雑な思いが交錯する場所でしょう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変によって、織田家臣団は転換期を迎えました。同年6月の緊迫した清須会議から天正11年(1583)4月の賤ケ岳の戦いへと進むなか、長秀は、勝家ではなく、羽柴秀吉に味方します。
賤ケ岳で柴田軍と対峙する羽柴陣営には、長秀の姿もありました。戦で敗れた勝家は北庄城に戻ったものの、羽柴軍に包囲されて最期を悟り、お市の方とともに自害することに――。
柴田神社の境内に立つ威風堂々たる勝家の像を見上げると、かつて共に信長の天下を夢見た二人の悲しい結末が胸に迫ります。
柴田神社の拝殿に手を合わせながら長秀の勝家への思いを想像する池田さん

丹羽長秀の墓
勝家の滅亡後、長秀は恩賞として、勝家の旧領・越前を預かることになります。北庄に入った丹羽長秀の眼前に広がっていたのは、長年の戦乱と一向一揆によって疲弊しきった越前の大地でした。
かつての盟友である勝家の旧領を継承するという状況下で長秀が抱いた「思い」はどのようなものだったのでしょうか。
「滅ぼした友の地に入る複雑な思いを想像することはとても難しいのですが、ここに立ってみると当時の人たちにとっては、戦国の世の常という心境のような気がします」(池田さん)
織田家は、信長の家督相続時は尾張の一勢力にすぎませんでしたが、やがて版図拡大とともに家臣団も増え、その中で柴田勝家、丹羽長秀、そして一族の織田信忠らが中核を担いました。
長秀は合戦でも内政でも大事な役割を果たしており、そのキャリアは、現代の企業で言えば、常に現場と経営陣の間に立つ「総務部長」のような立ち位置だったのではないでしょうか。
信長は家臣団に求めるレベルが高く、筆頭家老だった佐久間信盛ですら、成果を残せていないとみるや追放するほどでした。
そんな信長のもとで、長秀は安土城築城という重大任務を任されましたが、巨大プロジェクトを遂行しつつ、柴田勝家や羽柴秀吉といった同僚と連携して天下統一事業を進めなければならない立場は、常に神経を削るものだったことでしょう。いったいどんな気持ちで、日々の任務にあたっていたのでしょうか。
「長秀は、信長からどんな無茶振りをされても、なんとか乗り切ってきた武将だと思います。時代は異なりますが、私自身、どこか境遇が似ているような気がして共感を覚えます。長秀の肖像画に似ているといわれたこともあります(笑)。長秀役をオファーいただいたときは、運命の巡り合わせだと思いました」(池田さん)
信長家臣団には、勝家、秀吉のほかにも明智光秀や滝川一益といった武将がいて、大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場します。信長家臣団の雰囲気や長秀と勝家との関係について、池田さんはいったいどんなイメージを持っているのでしょうか。
「いわゆる一致団結型のチームとは違い、有能な武将たちがそれぞれに信長という天才武将に振り落されないように、くらいついていったのではないかと。長秀と勝家が仲良くやっていたとはとても思えないですし、馴れ合いでやっていたら、信長に蹴られたでしょう(笑)。共演の俳優さんたちとそういう話をよくしています」
そんな長秀の最期には、驚くべき逸話が残されています。体内にできた腫物を自ら抉り取り、秀吉に送り付けたというのです。これが事実であれば、長秀には、柴田勝家を破り、天下人へと着々と近づいている秀吉を戒めようとの考えがあったのかもしれません。
いずれにしても、北庄の復興に心血を注いだ長秀は、信長亡き後の世を安寧に導かねばならない、との思いも抱いていたことでしょう。
長秀が眠っている総光寺(そうこうじ)は福井市内の閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいます。
信長の死後、激変する時代の中で、彼は苦渋の決断を迫られ続けて、最終的には秀吉の天下取りを助ける形となりましたが、その内面には常に「織田家への忠義」と「乱世の終焉」への願いが交錯していたと考えられます。
雪がちらつく総光寺の静けさは、そうした激動の人生を歩んだ長秀が、ようやく手に入れた安らぎそのもののように感じられます。
派手な武勇伝や悲劇的なエピソードでは勝家の陰に隠れてしまうかもしれませんが、戦火に包まれた越前を鎮め、人々が暮らす「都市」としての機能を再生させた長秀の功績は、今の福井の街並みの中に確実に息づいています。
更新:03月05日 00:05