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【本郷和人が解説】武士はなぜ「首」に執着した? 源義経が強行した「生首のパレード」

本郷和人(歴史学者)

「後三年合戦絵巻 巻下」に描かれた生首(出典:ColBase)
「後三年合戦絵巻 巻下」に描かれた生首(出典:ColBase)

「敵の首を取る」という言葉が、文字通りの意味を持っていた時代。鎌倉武士たちにとって、首は自らの手柄をアピールし、勝者の権力を示すための「政治的ツール」でもありました。源義経の死亡を証明するため、奥州平泉から鎌倉へと生首が運ばれた驚きの手法や、戦場で行われていた「首実検」の作法など、武士社会における「首」の意味について、歴史学者の本郷和人氏がひも解きます。

※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』(扶桑社)より一部抜粋・編集したものです。

 

首を取ることは、武士の最大の手柄

現代では想像もつかないほど、命のやりとりが当たり前だったと考えられる鎌倉武士たちの間で、最大の手柄。それは「敵の首」をとることでした。よく慣用句で「あいつの首をとってやった」という言葉が、「やりこめてやった」という意味で使われます。ですが、ここで「首をとる」とは文字通り、首を切り落とし、それを持ち帰ることです。いわゆる「首狩り」です。

武士社会において首が非常に重要だったことは間違いありません。武士は主人のために命をかけて戦います。そして主人は、その働きに対して御恩を与える。この「御恩と奉公」という形が武士社会の基本的な主従関係です。そのとき評価の基準になるのが「どんな首を取ってきたか」だったのです。なぜ首が重要視されたのか。それは、ひとつには「社会にアピールする」という目的があったのではないか。この感覚は、平安時代に起こった源平合戦のエピソードにもよく表れています。

寿永3(1184)年に起こった一ノ谷の戦いの後、平家方の武将たちは多くが討ち死にします。その際、源氏側は、その名のある武将たちの首を持ち帰りました。ここで頼朝の弟・義経が後白河上皇に願い出たのが、「大路渡(おおじわた)し」という儀礼でした。これは簡単に言うと、討ち取った敵の首を都の大通りで見せびらかす、いわば「生首のパレード」のようなもの。「見てください、かつて威勢を振るっていた平氏の武将も、いまや首だけだ」ということを都の人々に示そうというのです。かなり残酷な行為ですが、当時の武士にとっては戦果を示す象徴的な儀式でした。

もっとも、この大路渡しには反対の声もありました。平家の武将の中には、すでに官位を持つ貴族も多かったからです。つまり、単なる武士ではなく、貴族でもある人物の首を庶民の前に晒すのはどうなのか、と。しかし義経はこれを押し切ります。「平家は父の仇である。ここまで戦ってきた以上、辱めを与えないという選択肢はない」と言い、大路渡しを強行するのです。義経の復讐心の強さがよくわかる場面です。同時に、その行為は、単なる残酷さだけではなく、「時代の権力者は自分たちだ」という政治的なメッセージも含まれていたのでしょう。

首を晒すことで権力の終わりを宣言する例は、それ以前にもありました。その一例が、平治の乱のときの藤原信西の事例です。信西は保元の乱の勝利によって後白河上皇の側近となり、当時の政治の実権を握った人物です。しかしそれを面白く思わないのが、青年公家、藤原信頼でした。信頼は平清盛が熊野詣でで京都を留守にしている隙を狙い、源義朝と手を組んで信西を打ち取ろうとクーデターを起こします。信西は京都を逃れて宇治田原まで落ち延びますが、逃げ落ちることはできないと判断し、自害。ところが、完全には死にきれなかったところを敵方の武士に発見され、首を刎ねられてしまう。

では、その首はどうなったか。なんと長い薙刀の先にひっかけられ、京都の大路を行進されてしまうのです。つまり、これは「信西の時代は終わった」ということを都の人々に見せつけるパフォーマンスだった。こうしたやり方は、その後も繰り返されます。源義経が平家武将の首で行った大路渡しも、言ってみればこの伝統の延長線上にあると言える。

人は死んでしまえば抵抗できません。その死体をさらし、辱める。首にされてしまえば、もう抗議もできない。武士の世界では、それが勝者の権力を示す最もわかりやすい方法だったのでしょう。

 

アルコール漬けにされて送られた義経の首

首は、戦いの世界で「その人物が本当に死んだのか」を証明する手立てでもあったのだと思われます。現代なら死亡診断書やDNA鑑定があれば一発でしょうが、武士の時代にはそんなものはありません。ではどうするか。首を持ってくること。それが一番確実でした。

実は源義経が奥州平泉で討たれた後、その首も切断され、頼朝の元へと送られています。義経の首は、遠い東北から鎌倉へ運ばれます。ただし、その運び方がなかなかすごい。腐らないように、首を酒に浸して運ぶのです。平泉から鎌倉までかなりの距離がありますから、当時としてはそれが最善の保存方法だったのでしょう。とはいえ、どんなにいい酒に浸したところで、時間が経てば当然腐る。正直、ドロドロになった首など誰も見たくないだろうなと思うのですが、それでも確認は必要だったわけです。

ところが、この確認作業のとき、義経の討伐を命令した頼朝本人は姿を見せず、確認したのは、侍所の長官和田義盛と副長官梶原景時の二人でした。彼らが鎌倉の町のはずれで検分し、「間違いなく義経殿の首でした」と頼朝に報告する。鎌倉の町には敵の首は入れない。ここが大切なのですが、これで義経の死が確定するわけです。武士の世界では、こうして首が死亡証明書の役割を果たしていました。

 

武士社会の「首実検」という奇妙でこわい儀式

敵を倒した後、その首をチェックする儀式は、「首実検」と呼ばれ、平安時代の後期から行われていました。文字どおり、討ち取った敵の首を確認する儀式で、武将が「確かにこの人物を討ち取った」と、大将に証明するための場でもありました。つまり戦場での手柄を確認する、公式の手続きのようなものです。しかし、この首実検、ただ首を見ればいいというものではありません。実は、かなり細かい作法が決められていました。

まず、首は三宝という台の上に置かれます。そして「これは誰々の首です」と説明しながら、大将に見せる。その先に、妙なルールが複数あるのです。そのひとつが、首を真正面から見てはいけないというもの。作法としては、首に対して斜めから、斜向かいに見る。正面からまじまじと見るのは、首をとられた武士に対して無作法だ、というわけですね。殺して首まで狩ってきた後に、その配慮は必要なのかとも思ってしまいますが、きっとそれが武士の美学だったのでしょう。

さらに、首の表情によって吉凶を占うという話まであります。「この顔つきなら不吉」「この表情なら大吉」などと言う。運ばれたときの状態によって表情も変化しそうなものですが、そこはあまり気にされていなかったようです。また、死に顔があまりにもひどい形相だと見苦しいので、顔を整えたり、お化粧をしたりもしていたようです(その役目をやりたい人は、ほとんどいなかったと思いますが......)。

正直なところ、こういう作法はおそらく後世に整えられたものだと思います。平安時代後期にこの儀式が始まった頃には、もともとは「誰が死んだのかを確認する」という現実的な行為が先にあったはずです。それが次第に儀式化され、いろいろな作法や意味づけが付け加えられていったのでしょう。

ところが、この首実検は、時として武士にとって命取りになることもありました。有名なのが戦国時代の武将である武田信玄の若い頃の敗戦です。まだ彼が「信玄」と名乗る前、武田晴信だった時代の話です。信濃の大名である村上義清と戦った際、武田家の重臣の板垣信方が先陣を切って戦い、多くの首を取りました。ところがよせばいいのに、板垣信方は戦場の真っただ中で首実検を始めてしまった。

首を並べて「これは誰の首だ」と確認している間に、村上義清の軍が反撃してきます。首実検中は首に夢中なので、当然隙だらけです。結局この戦いで、武田家のナンバー2とも言える板垣信方は討ち死に。さらに有力武将である甘利虎泰も戦死し、武田軍は大きな打撃を受けました。首実検をしていたせいで、大事な部下を複数失ってしまった。若き武田信玄にとって、これはかなりショックの大きい敗戦だったでしょう。

プロフィール

本郷和人(ほんごう・かずと)

歴史学者

1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授を経て、藤田医科大学特命教授・リベラルアーツセンター長。専門は、日本中世政治史、古文書学。

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