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平安宮の便所掃除は囚人の仕事...大河ドラマでは描かれない「平安時代のトイレ事情」

2024年10月27日 公開

朧谷寿(歴史学者)

駒競行幸絵巻↑『駒競行幸絵巻』。後一条天皇が行幸した際の競馬を描いたもの。この日、トイレが仮設された(東京国立博物館蔵、出典︰ColBase)

平安時代というと、大河ドラマ『光る君へ』で描かれるように、華やかな貴族たちの世界が思い浮かびます。しかし、そんな彼らもやはり人間。用を足していたことに変わりはありません。果たして、平安時代のトイレはどのようなものだったのでしょうか。しばしの間、臭い漂う平安の世界に、お付き合いくださいませ。

 

トイレ事情がはっきりしない理由

以前、メディア関係の人からこんな電話をもらったことがあります。「今、貴族社会を扱ったドラマに関わっているのですが、トイレのことがはっきり解らないのです。日記などにも書いてないようですが、なぜでしょうか」と。

そこで私は、「あなたは日記にトイレのことを書きますか。昔の人も今の私たちも考えることは一緒ですよ」という返事をしました。すると先方は何も言わず、「ありがとうございました」と。

しかし私も、平安時代の人々はトイレをどのようにしていたのか、知りたいところではあります。調べてみると史料が皆無というわけではなく、断片的な情報を得ることができました。これらを手掛かりに、平安時代のトイレ事情を少し探ってみることにしましょう。

なお、発掘調査による考古学上の成果に見るべきものはありますが、残念ながら平安京に関しては明確な遺構が確認されていません。従って文献の面から探っていくことにします。

 

天皇の住まう宮中では...

人が生きていくうえで大切なことは、物を食べて排泄する、この繰り返しといってもよいでしょう。排泄するには場所が必要で、現代人はそれをトイレ(便所、厠〈かわや〉)と呼んでいます。

普通、美味しいものが胃を通過すると汚物と化すため、排泄所は人目の付かない場所に設置されます。平安時代の文献に「隠所(いんじょ)」の語があり、それがトイレに相当します。

それでは宮中のトイレはどうだったのでしょうか。

平安宮(大内裏)内の内裏図を見ると、東北隅にある華芳坊(かほうぼう)の南に所在する南北に長い建物に、「御樋殿(おひどの)」と書き込みがあります。これはトイレを指し、江戸時代の有職故実家が書いた『大内裏図考証』によると、御樋殿の南面と西面には塀がありました。

またその書は『延喜式』(律令の施行細則)を引用して、徒役人(ずえきにん。徒刑に服した人)が囚人らを率いて宮城の四面を掃除させ、雨の翌朝には宮内の汚穢(おわい)や厠の溝などを清掃させていることを挙げています。

この囚人による雨の翌朝の厠の掃除は、平安時代にはじまったことではなく、すでに奈良時代初期に行なわれていました。

内裏の西には、即位式をはじめ国家の重要儀式を行なう朝堂院があり、その正殿が大極殿(だいごくでん)です。久寿2年(1155)、ここで後白河天皇の即位式が行なわれ、その様子を記す『兵範記』に図が載っています。

それによると、大極殿の北の昭慶門(しょうけいもん)東の一郭に、「御樋殿 立五尺屛風一帖」の書き込みが見られます。御樋殿には屏風を立てたことがわかり、おそらくその中に、樋筥(ひばこ。いわゆる便器)を置いたのでしょう。

天皇が暮らす清涼殿(せいりょうでん)では、北方の滝口のあたりに御厠殿(みかわどの)、御装物所(おんよそおいものどころ。御樋殿)が備わっていたので(『延喜式』『西宮記』『江家次第』)、天皇はここを用いたと考えられます。

そして毎朝、樋洗(ひすまし)・御厠人(みかわやうど。宮中で雑用に従事し、主として便器の管理にあたった下級女官)らが、華芳坊南の御樋殿に尿・便を捨てに行ったのです。

天皇の妻である中宮はじめ上級女性の場合、各々の部屋にトイレがあったかは定かではないですが、説話などにそれらしき記載もあります。そしてその多くは、持ち運びの出来る御虎子(おまる)、大壺(おおつぼ)、虎子(おおつぼ)、清筥(しのはこ)、尿筥(しのはこ)、尿筥(しとづつ)といった便器に排泄し、毎朝、長女(おさめ)・御厠人ら下級女官が、内裏東北隅の御樋殿に持っていったのです。

また『源氏物語』(「須磨」の巻)には、「まして常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで」とあり、彼女たちは源氏が見知るはずもない身分低い女性であった、とあります。

かの清少納言は『枕草子』のなかで、積雪で作った雪山を子供らが崩さぬよう注視させたり、手紙を届けたり、犬が蔵人(くろうど)に打ちのめされているのを報告に来たり、と使い走りをしている「すまし」「長女」「御厠人」の姿を記しており、「物の数でもない賤しい者」と見下しています。

 

厠の場所とそこで起きた事故

栄華を極めた藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)が寛仁2年(1018)に再建された際、必要な家具、調度類の一切を源頼光が寄進して衆目を浴びました。『小右記』によると、その中に「御大壺一雙(いっそう)、御樋一具」とありますが、いずれも道長・倫子(りんし)夫妻用の便器でしょう。

土御門殿に備えられた樋殿の具体相は判りませんが、道長が足に針を踏み立てて、歩けなくなったことがありました。そのとき道長は、円座(えんざ)に坐ったまま曳いてもらって「隠所」へ行ったといいます(『小右記』)。足の具合は1年ほど思わしくなく、「厠」から戻る時に誤って階(きざはし)から地上に落ちているのです(『小右記』)。

そのことを道長は、自身の日記に「北屋の打橋(うちはし)より落ちる間、左方の足を損ねる、前後不覚なり」「夜の間、足腫れて痛く、為す方を知らず」と記しています。

『小右記』の作者、藤原実資がいう「隠所」「厠」は、道長のいう「北屋」ないしその一郭にあったトイレ施設を指し示しています。それは土御門殿の北の対(北の建物)ないし西北の対(西北の建物)あたりにあったものでしょう。

このように貴族の邸内には、御樋殿が設えてありましたが、そこに貯まった糞尿は、外の水路から暗渠(あんきょ)で引き入れた側溝を通して外へ流していたのです。

先述の宮中の汚穢(糞尿も含む)や厠の清掃の事例をはじめ、弘仁6年(815)の公文書がそのことを暗示しています。それは、築地を穿って水を引き、道路を水浸しにすることを禁じ、汚穢が見える形で流すことも禁止し、穴を掘って樋を設けて水とともに流すよう命じたものです(『類聚三代格』)。

ところで道長と同じように、便所に行く途中で倒れるという事例が他にも見られます。寛弘元年(1004)の冬、帥中納言(そちのちゅなごん)こと平惟仲は「厠」を出る時に転倒し、腰を骨折して動けなくなり、喋ることもできなくなりました。そして陰嚢が腫れて前後不覚に陥り、数カ月後に他界しました。これは任地の大宰府でのことでありました(『小右記』寛弘2年〈1005〉2月8日条、『日本紀略』3月14日条)。

さらに三蹟の一人、藤原行成は不調のなか夜中に「隠所」に向かう間に転倒し、一言も発せずに頓死しています(56歳、『小右記』万寿4年〈1027〉12月5日条)。奇しくも藤原道長と同じ日の死でありました。

厠の場所に話を戻しましょう。万寿元年(1024)9月、後一条天皇は、関白太政大臣・藤原頼通の高陽院(かやのいん)へ行幸し、盛大を極めた競馬(くらべうま)を見物されました。『栄花物語』では「こまくらべの行幸」として一巻をこれに充て、『駒競行幸絵巻』という絵画資料も存在するほどに有名な催しでした。

この日の『小右記』に「艮(うしとら。北東)の角一間に御簾を懸け、御粧物所(およそものどころ)と為す」とあり、馬場殿の東北隅に御粧物所(御樋殿)を仮設しています。

また長久元年(1040)、後朱雀天皇が叔父の内大臣・藤原教通(道長の子)の二条第へ遷御されたときのこと。この邸では寝殿を南殿(紫宸殿)とし、南の対(南の建物)を御在所に充てたことにともない、そこに御湯殿と「御樋殿」を設けています(『春記』)。このように、目立たぬ生活空間の西や北に便所と水回りの施設を配置することは、よく見られる現象です。

 

婚姻の夜の用足しは...

後三条天皇を祖父にもち、臣下となった源有仁(ありひと)は、17歳で故権大納言・藤原公実の娘婿となっています。彼は詩歌・管絃に秀で、光源氏のような美男であったようです。

なお、妻の実妹に白河天皇の養女となり、鳥羽天皇の中宮となった藤原璋子(待賢門院)がいます。有仁は13歳の時、伯父にあたる白河法皇の御所で元服し、猶子となった経緯があり、この結婚は白河法皇の勧めるところでもありました。

その関係からでしょうか、新妻の居所は白河法皇の大炊殿(おおいどの)となっています。新妻が有仁を迎える大炊殿の寝殿の一郭に御帳を設営し、繧繝縁(うんげんべり)の畳を三枚敷いて寝所としています。『長秋記』には「南方に沈枕(じんまくら)一双を置き跡方に大壺を置く」とあり、足もとには「大壺」(便器)が置いてありました。

また、これとは別に寝殿の廊の東間を「樋殿」に充てており、ここには大壺と「紙置台」が置いてあったのです。紙置台の存在は、白河法皇が糞ベラ(後述)ではなく紙を用いていたことを暗示しており、この時期には、上皇といった上級階層は用を足す際、紙を用いたのでしょう。

 

庶民の排便事情

餓鬼草紙↑『餓鬼草紙』。高足駄を履き、用を足す人々が描かれている(国立国会図書館蔵)

このあたりで庶民の排便事情についても触れたいですが、これは至難の業です。彼らは、日記はおろか、物を書く術を知らず、説話や絵巻物といった間接的な史料から読みとるしかありません。

10世紀後半のこと、関白・藤原頼忠の娘で円融天皇皇后の藤原遵子は、多武峰(とうのみね)の増賀聖人(ぞうがしょうにん)を招いて剃髪し、出家を遂げました。そのとき聖人は、大声で卑猥な事を言ったため、居合わせた女房たちは、開いた口がふさがらなかったといいます。

帰りぎわに聖人は、皇后宮大夫の藤原公任(きんとう。皇后の実弟)に「年老いて風邪も重く、目下、下痢がひどく、それを押して参上いたしたが、もはや堪えきれず急ぎ退出いたす」と言って走り出し、西の対(西の建物)の南の放出の縁にしゃがみ込み、尻をまくって、容器から水をぶちまけるように下痢便をたれ流しました。その汚い音が皇后のところまで聞こえたといいます(『今昔物語集』)。

この絵画版ともいえるのが『病草紙(やまいのそうし)』(12世紀末の絵巻)の「霍乱(かくらん)の女」でしょう。縁先で四つん這いになり、庭に向かって「口より水を吐き、尻より痢をもらす」、尻を出してまさに水便の最中が描写されています。

霍乱とは、下痢・嘔吐を伴う急性胃腸炎の症状のこと(服部敏良『王朝貴族の病状診断』)。この『病草紙』に出てくる家は、庶民層で屋内にトイレの施設などはなかったであろうことから、排泄は外で行なったと考えられます。

平安中期の歌人として知られる橘季通(たちばなのすえみち。父は清少納言の夫の一人とされる則光)が高貴な家に仕える女房と深い仲になり、夜ごとに彼女のもとへ通っていました。それを知ったその家の侍どもは「この家の者でもない者がわが物顔に出入りするとはけしからん、懲らしめてやろう」と警備を固め、季通が女房の許から朝方に帰るのを待っていました。これに女房が気づいたものの、為す術がありません。

そこで季通に従っていた小舎人童(こどねりわらわ。貴人らに召し使われた童)の機転が物をいうこととなります。いったん帰り、迎えに来て状況を察知した彼は、たまたま「大路ニ屎(くそ)マリ居テ候」つまり、大路に屈んで大便をしていたこの家に仕える女童を捕まえ、衣服を引き剝ぎ脅したのです。すると、この女童の悲鳴を聞いた侍らが飛び出し、その隙に季通は屋敷を抜け出せました(『今昔物語集』)。

かなり身分の高そうな家なので邸内に樋殿はあったと思われますが、誰もが使えたわけではなく、とりわけ女童のような軽輩は、邸外の空き地で用を足したのでしょう。

庶民の家には樋殿の設備はなく、空き地があればどこでも用便をしたようです。ここで想起されるのは、暗闇のなか、小路の端に寄ったら「屎のいと多かる上にかがまり居ぬ」つまり、糞が沢山してある上に坐ってしまったという『落窪物語』の話です。

さらに『餓鬼草紙』(十二世紀後半の成立)の「食糞(しょくふん)餓鬼」に見られる描写が思い起こされます。

平安京のとある街角、崩れた築地塀や網代壁に沿った道端で、老若男女が小便や大便をしています。素裸になっている子供の姿もありますが、大人は尻を捲(まく)りあげて用便をしています。立ったままで尻を出している老人もいます。

みな一様に高足駄を履いていますが、これは足元や着物の裾などが汚れるのを避けるためです。よく見ると、排便中の子供が右手に木片を持っているのがわかります。それは終わった後に拭き取るための籌木(ちゅうぎ)、つまり糞ベラです。あちこちに便や使用済みの籌木が散乱し、中に紙らしきものも見えます。

庶民は屋内に便所を持たなかったようで、このようなところで用を足していたのです。そうであるならば、この草紙に描かれた場所は共同便所であり、高足駄は共同使用と考えられます。

臭い話はこのあたりでお終いにしましょう。

 

【朧谷寿(おぼろやひさし)】
歴史学者。昭和14年(1939)、新潟県生まれ。同志社大学文学部文化学科文化史学 専攻卒業。平安博物館助教授、同志社女子大学教授を経て、現在は、同志社女子大学名誉教授、 公益財団法人古代学協会理事長、社団法人紫式部顕彰会副会長。著書に『藤原氏千年』 『藤原彰子 天下第一の母』『平安京の四〇〇年 王朝社会の光と陰』などがある。

 

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