平安時代の傑作『源氏物語』にも表れているように、平安貴族は現代とは全く異なる倫理観で恋愛をしていました。夜這いや複数人と関係を持つことも当たり前...。当時の驚くべき恋愛模様の実態について、文学作品から探ります。
※本稿は、山口博著『悩める平安貴族たち』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
【山口博(やまぐち・ひろし)】
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。カルチャースクールでの物語性あふれる語り口に定評がある。著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。
和泉式部のような和歌の達人であっても、紫式部からは「素行が感心できない」と批判され、藤原道長は「浮かれ女(め)」と揶揄する。「浮かれ女」と評された和泉式部は、歌で逆襲する。
越えもせむ越さずもあらん逢坂の 関守ならぬ人なとがめそ
(男に逢うという名の逢坂の関を越えようと越えまいと、逢坂の関守ならとがめるでしょうが、関守ではない貴方がとがめることはないでしょう)
和泉式部(『和泉式部集』)
和泉式部は和泉守(現在の大阪府知事のポジション)橘道貞の妻となったが、道長の揶揄通りに好色者として知られ、それにまつわる多くのエピソードがある。
『和泉式部集』には十指に余る男の名前が出てくる。同僚女房の紫式部には「手紙の走り書きは素晴らしいが、素行が感心できない」(『紫式部日記』)と批評されたのも、もっともだ。
素行が感心できないのは和泉式部だけではない。女房の局には、男たちが頻繁に出入りしていた。夜ともなると一層激しかった。紫式部は、
内裏の局で心細く寝ていると、女房たちが「内裏は、やはり様子が違うわ。実家辺りではもう寝たに違いないのに、ここでは寝付けないほど頻繁な沓(くつ)の音だわ」と、自分の所にも沓の音がと、色めかしく言うのを耳にします。
紫式部(『紫式部日記』)
と記す。
紫式部の局を叩く男もいた。しかしマイナス思考の紫式部はそれが怖ろしく、返事もせずに夜を明かした。翌朝、その男の歌が届く。
夜もすがら水鶏よりけに泣く泣くも 真木の戸口を叩き侘びつる
(貴女が戸を開けてくれないので、一晩中、水鶏の鳴き声のように、泣く泣く板戸を叩きあぐねました)
男(『紫式部日記』・『紫式部集』)
水鶏という鳥の鳴き声はコンコンと物を叩く音に似ているそうだ。紫式部は頑なに拒絶する。
ただならじとばかり叩く水鶏ゆえ あけてはいかに悔しからまし
(ただ事ではないぞとばかりに、水鶏のようにコンコンと戸を叩いたようですけれど、真に受けて戸を開けでもしたならば、夜が明けてからどんなに悔しい思いをしたでしょうか)
紫式部(『紫式部日記』・『紫式部集』)
この贈答歌を掲載した『新勅撰和歌集』恋五は、この水鶏男を藤原道長とする。そうであるならば、紫式部は最上流の貴族をも冷たく袖にしたことになる。
現在の私たちの感覚からすると、道長の多情を非難し、拒絶した紫式部に拍手を送りたいところだが、当時の「色好み」という自然な感覚からは、自分を性的に解放して生きることは自然であり、非難すべき行動ではなかった。
『大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)集』にはこんな話がある。
『後撰和歌集』撰者の一人で、当時を代表する歌人の大中臣能宣が、ある女房の局で共寝をしていると、その女房が皇后に召された。女は「しばらくの間、眠らないでね」と言い残して局を出て行ったが、女はその夜、能宣の待っている局には戻らなかった。女は他の男と寝たのである。
翌朝、女は「いかがでしたか。昨夜は眠かったですか」と言ってきた。頭に来た能宣はこう返した。
眠たくも思ほえざりつ夜もすがら 目覚ましくのみ人の見えしに
(眠たいはずなんてあるものか。貴女が戻らず他の男と寝ていると思うと、憎らしくてイライラし、一晩中目は覚めっぱなしだったぞ)
大中臣能宣(『大中臣能宣集』)
「目覚まし」に「目が覚める」と「憎らしく非難すべき」を掛けたのだ。一夜のうちに男から男へ渡り歩くこのような女房は少なくなかったに違いない。「近頃の娘たちは」と藤原実資が顔をしかめたのも、頑迷固陋(がんめいころう)とは言い切れない面があったのだ。それにしても、勅撰和歌集撰者も形無しだ。
ある女は五位と六位の男二人を同時に愛人にしていた。それを見て、道長の周辺で和歌や漢詩文を作って活躍していた藤原輔尹(すけただ)は、その放埓振りを嘲笑するように歌った。
あるが上に重ねて着たる唐衣 朱(あけ)も緑も別(わ)かずぞありける
(あの女は唐衣を着ている上に更に朱色の袍《ほう》も緑の袍も区別せず二枚重ね着しているぞ)
藤原輔尹(『輔尹集』)
「唐衣」は「からぎぬ」で女官の正装着であるから、女を意味させている。「朱」は緋色の袍で五位、「緑」は六位の袍である。
このような生活をしていれば、子を孕むことは少なくなかっただろう。和泉式部が子を生んだ時に「今度はどの男の子を産んだと決められましたか」と尋ねられると、無責任な回答をしている。
この世にはいかが定めんおのづから 昔を問はん人に問へかし
(今の男女の間柄でどうして決められるでしょうか。何かの折に私の昔の恋を知っている人に聞いてください)
和泉式部(『和泉式部集』)
父親は誰か分からないというのだ。『源氏物語』にも同じモチーフの歌がある。かつては頭中将(とうのちゅうじょう)の名で親しまれ、今は太政大臣になっている男の息子柏木衛門督が光源氏の妻女三宮と密通し、柏木そっくりの子が生まれる。光源氏が妻に、
誰(た)が世にか種はまきしと人問はば いかが岩根(いわね)の松は答へん
(誰がいつ種をまいたのかと聞かれたらこの子は何と答えるでしょうか)
光源氏(『源氏物語』第三十六帖「柏木」)
と問う場面が想起されるのだ。「岩根の松」はこの時に生まれた「宇治十帖」のヒーロー薫君で、表向きは光源氏の子である。
一夜のうちに男から男へ渡り歩き、誰の子を孕んだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではない。諸歌集には「色好みの名立ちける女」が数多登場するし、「男の、ここかしこに通ひ住む(女の)所多くて」などともある。
現代の道徳観から理解するのは非常に困難だが、節度をわきまえた「色好み」は人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件であったのだ。ただ、過剰であったり身分階級を超えたりした色好みは、風儀に外れるとして冷たく見られていたらしい。
宮廷の男女は職場恋愛が多いから、足が遠のいた薄情男に会うこともある。女房駿河が愛していた男はだんだん通ってこなくなり、近頃はサッパリ。ある時、宮廷でその男の気配がするので、彼女は男のいる、四方を壁で塗り込め、寝室などに使う塗籠(ぬりごめ)の隣の部屋に行き、壁の穴から覗いてかすかに男の姿を見た。
さすが王朝の女だ。部屋に乗り込んで面と向かって薄情をなじるようなことはしない。どこまでもエレガントに、エレガントに。駿河は歌を詠んで部屋に投げ込んだのである。かすかな希望を託して。
まどろまぬ壁にも人を見つるかな まさしからなん春の夜の夢
(眠らないのに壁に恋しい人のお姿を見たわ。これは夢かしら。このはかない春の夜の夢が正夢にならないかしら)
女房駿河(『後撰和歌集』恋一)
壁の穴の彼方に男の姿が見えたのを、幻のように壁に映ったと表現したのだ。誰かを夢に見るのは、その人がやってくる前兆といわれている。夢で心に思う男また女を見ることを、夢の中の路を通ってくるので「夢の通い路」という言葉もある。
駿河の場合は壁の穴の彼方に男の姿を見たので、その穴を通って男がやってこないかと歌う。「夢の通い路」ではなく、これは「壁の通い路」。まさか男は鼠ではあるまいし。物の陰から覗き見をするのはだいたい男。女の覗き見は、これはまた珍しい話。
更新:11月21日 00:05