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「これやこの〜」から始まる和歌の作者で知られる蝉丸。小倉百人一首のなかでも、もっともよく知られた歌の一つだが、蟬丸とはいったい何者なのかというと、実はよくわかっていない。数多語られる「蟬丸の正体」に迫ってみよう。
※本稿は、『歴史街道』2022年3月号から一部抜粋・編集したものです。
【鷹橋忍 PROFILE】昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『滅亡から読みとく日本史』などがある。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
古文に興味はなくても、この蟬丸の和歌だけは覚えているというかたも多いだろう。「これやこの」と「知るも知らぬも」で頭韻を、「行くも帰るも」と「知るも知らぬも」で再び韻を踏むこの和歌は、リズミカルで記憶に残りやすい。小倉百人一首の10番目の和歌であるが、もともとは『後撰和歌集』に載せられていた(『後撰和歌集』では「〜行くも帰るも別れつつ〜」)。
歌中の「逢坂の関」とは、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境に位置した関所を指す。京と東国を繋ぐ交通の要衝で、関所から東が東路である。当時の人々は、東国へ行く者も、京の都に帰る者も、この関所を越えた。
歌意は、「これがまあ、東国へ行く人も都へ帰る人もここで別れ、知っている人も知らない人も巡り会うという、逢坂の関なのか」である。逢坂山を行き交う人々のざわめきや足音まで聞こえてきそうな臨場感と、出会った者は必ず別れるのだという、会者定離の無常観も伝わる名歌だ。
この誰もが知る名歌を詠んだ蟬丸とは、平安初期の歌人で、盲目の琵琶の名手であったといわれる。
旧暦の5月24日が「蟬丸忌」とされているが、生没年は不詳だ。蟬丸という印象的な名は、蟬歌や蟬声(蟬の鳴き声に似た、絞り出すような歌や声)に何らかの関係があるとされ、蟬声を得意とした人の綽名だという説もある。
百人一首の読み札では頭巾を被った姿で描かれることが多く、僧侶のようにも見える。しかし、逢坂の関に庵を結んだというものの、蟬丸を桑門の人とは断定できない。
百人一首のなかには、名前に「僧正」や「法師」の呼称が付いている作者がいる。たとえば、
あまつ風くもの通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
の作者は「僧正遍昭」、
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
の作者は「喜撰法師」と記されている。だが、蟬丸には「僧正」も「法師」も付けられていないのだ。
また、『後撰和歌集』の詞書(歌の前に書かれた説明文)によれば、「これやこの〜」の和歌は、逢坂の関所の近くに庵を結んでいた時に、関所を行き交う旅人を見て詠んだという。このことから、蟬丸は盲目ではなかったという説が存在する。
蟬丸の出自も諸説あって、確かなことはわかっていない。それどころか、蟬丸はその実在すら確かな史料で証明できない、謎に満ちた人物なのである。
蟬丸に関しては断片的な史料しか残されていないのだが、そのなかで、よく知られているのは、平安後期の説話集『今昔物語集』だろう。
『今昔物語集』巻第24第23の説話では、蟬丸は宇多天皇の第八皇子・敦実親王の雑色(雑役をつとめる下人)で「賤シキ者」と記されている。
敦実親王はきわめて優れた管弦の才能をもっており、蟬丸は敦実親王の演奏を聴いているうちに、いつのまにか、世に並ぶ者のいないほどの琵琶の名人になり、親王から秘曲を伝授されるに至った。しかし、盲人になってしまったため、蟬丸は逢坂の関に庵を設けて暮らしていたという設定である。
説話では、管弦の道を極め、琵琶の名手であった源博雅(第60代醍醐天皇の第一皇子・克明親王の子)が、蟬丸の琵琶の評判を聞き付け、その演奏を聴きたいと思った。しかし、蟬丸の家があまりに粗末であったため、使いをやり、「どうして、そんなところに住んでいるのか。都へ来てはどうか」と伝える。
蟬丸は、返事の代わりに和歌を詠んだ。
世の中はとてもかくても過ごしてむ宮も藁屋もはてしなければ
(この世の中はどのように生きても、しょせんは同じこと。豪華な宮殿も粗末な藁屋も、いつまでも住みとおせないのだから)
こちらも無常観が漂う歌である。
その後、源博雅は蟬丸のもとへ夜ごと通いつめ、3年目の8月15日の夜、琵琶の秘曲である『流泉』『啄木』を伝授されたと、『今昔物語集』ではなっている。
鎌倉時代に成立したとされる『平家物語』の「海道下り」には、源博雅が風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、蟬丸のもとに通い続けて、秘曲を伝授されたというエピソードが登場する。
だが、『平家物語』の蟬丸は、『今昔物語集』と大きく異なっている。こちらの蟬丸は、逢坂山近くの四宮河原(京都市山科区)に住む、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子となっているのだ。
鎌倉中期の紀行文『東関紀行』にも、「或人の曰く、蟬丸は延喜帝第四の宮にておはしける、故にこの関の辺りを四ノ宮河原と名付けたりといへり」と記されている。
なぜ蟬丸は、雑色から醍醐天皇の第四皇子に格上げされたのか。
これは、蟬丸と仁明天皇の第四皇子・人康親王が、混同されたのではないかといわれている。
人康親王は京都市山科区の諸羽山の麓の山荘で、風雅な隠棲生活を送っていた。
四宮の地名は、この人康親王にちなんでおり、琵琶の名手として知られ、盲目であったとの説もあることから、蟬丸と結びついたとみられている。
ちなみに室町時代、世阿弥の作ともいわれる能の『蟬丸』は、醍醐天皇の第四皇子でありながらも、盲目ゆえに、父帝の命令で逢坂山に捨てられた蟬丸が藁屋で暮らしている。そこへ、髪が逆立つ病をもち、心も乱れ、放浪を続けていた姉が偶然訪れ、互いの境遇を語り合うという、哀感漂う曲目となっている。
蟬丸というと琵琶の印象が強いが、ほかの楽器の伝説も残っている。鎌倉初期の歌人・鴨長明の歌論書『無名抄』には、良岑宗貞(遍昭)が和琴を習うために、蟬丸のもとに通ったという記述がみられるのだ。
蟬丸の伝説が残っているのは、逢坂山近辺だけではない。福井県には、「蟬丸の墓」と「蟬丸の池」の伝承が残されている。
流浪の果てに宮崎村(丹生郡越前町)にたどり着いた蟬丸は、やがて病に倒れ、「私の遺体は、七尾七谷の真ん中に埋めてくれ」との遺言を残して、息絶えてしまった。蟬丸の墓は遺言どおりの場所に建てられ、越前町の陶の谷に並んで建つ3基の塔のうち、1基が蟬丸の墓だという。また、越前町舟場の「蟬丸の池」には、蟬丸が舟に乗ってやってきたとの伝承が語り継がれている。
このように多くの伝説が残るのは、逢坂の関の近辺で活動した盲僧などの多くの放浪芸能者にまつわる伝承が、いつしか「蟬丸」という偶像に集約されて語られたためだと考えられている。
逢坂山には、関蝉丸神社上社と、上社から約500メートル下方に位置する関蝉丸神社下社の、二つからなる関蝉丸神社があり、その名のとおり蟬丸を祀っている。逢坂山の坂の守護神として、平安時代の弘仁13年(822)に創建されたと伝わる。
御由緒によれば、蟬丸は没後、この関蝉丸神社に祀られたという。時期は、天慶9年(946)とも、平安時代末ともいわれている。
その後、蟬丸の伝承は全国各地へと広まっていき、音曲諸芸道の祖神として信仰されるようになっていく。江戸時代には、関蝉丸神社から諸芸の免状が諸国に交付されていたという。
しかし、近年、蟬丸信仰も衰退し、宮司不在の時期が続いたことなどから、境内も荒廃してしまった。平成25年(2013)には、台風で崩れた裏山の大木が、本殿を直撃するなどの被害を受けている。
次世代に芸能の神を伝えるべく、復興への取り組みも行なわれている。関蝉丸神社下社では、「芸能の祖神を蘇らせる」をスローガンに、平成27年(2015)から、関蝉丸芸能祭の開催を始めた。
地元企業や市民有志らの力添えもあり、関蝉丸芸能祭は毎年5月に開かれ、能や雅楽、ジャズまで、幅広いジャンルの催し物が演じられてきた。
残念ながら、令和2年(2020)はコロナ禍で中止となったが、令和3年(2021)は11月に開催され、多くの人々が来場し、諸芸が披露されている。
今後もきっと芸能祭は開催され、行く人も帰る人も、知る人も知らない人も、多くの人々が関蝉丸神社に集い、大空に歌声や楽器の音色を響き渡らせるだろう。蟬丸も芸の奉納を受け、さぞかし喜ぶに違いない。