2018年02月20日 公開
2022年06月02日 更新
晴明神社の安倍晴明公像
フィギュアスケート・羽生結弦選手の、フリーのプログラムは「SEIMEI」。平安時代の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)がテーマである。
怪しげな術を使い、式神(しきがみ)を用いたと言われる、安倍晴明とは、いかなる人物だったのか。
平安時代というと、つい優雅なイメージを抱きがちである。『源氏物語』に描かれているようにきらびやかに着飾った公達や女官たちが、美しい花々の咲き乱れる宮廷で恋愛ゲームに憂き身をやつす……。
それはファンタジーに過ぎない。
現実の平安京は、そんなところではなかった。
ふたつ、大きな特徴がある。
まず、疫神(えきじん)の暴威である。
毎年のように疫病が流行し、そのたびに多数の死者が出た。
当時は疫病が「病」ではなく「疫神」という悪神(あくじん)の祟りだと考えられていた。
疫神のせいで都大路には無数の死体が転がっており、その数があまりにも多すぎて路肩の下水口が詰まってしまい、汚水や糞尿が溢れた。
暑い日や風の強い日には耐え難いほどの死臭が充満し、その臭いが内裏にも届き、
「これでは息もできんやないか」
と、天皇が怒って、検非違使(けびいし)に死体の処理を命じたことがある。検非違使は下人を指図して、死体を牛車に乗せ、鴨川に捨てに行く。
しかし、河原はすでに死体でいっぱいで、あまりにも多くの死体があるために、川の流れすら止まっている有様だったという。
もうひとつの特徴は夜の暗さである。
一般庶民の家には照明器具がない。宮中には紙燭(しそく)や燭台があるが、隣にいる者の顔を見分けることも難しいという程度の明るさしかない。日が沈むと、平安京は漆黒の闇に包まれたのだ。
暗い世界では見えないものが見える。
平安時代には魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類いがいた。妖怪変化(へんげ)もいた。現実に存在するかしないかという話ではなく、この時代の人々が、その存在を信じていたということが重要である。
平安時代というのは、疫神が暴れ回り、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)する迷信に支配された時代なのである。
こうした疫神や魑魅魍魎に立ち向かったのが、当時の最先端の科学である陰陽道を駆使した陰陽師であり、数多(あまた)いる陰陽師の頂点に君臨したのが安倍晴明なのである。
陰陽道は六世紀の初めに大陸から伝わり、平安時代には貴族たちの日常生活を支配するほどに浸透した。陰陽寮という役所まで設置されていた。
古来、陰陽道の宗家と言えば賀茂氏である。賀茂氏は奈良時代から続く名家で、忠行という大名人が出るに及んで宗家の地位を確立した。
忠行の得意技は透視術である。醍醐天皇の御前で、八角形の箱を透視し、その中に水晶の数珠が入っていることを的中させたという逸話が『今昔物語』にある。
この忠行の弟子が晴明である。
晴明の出現によって、安倍氏は賀茂氏と肩を並べる陰陽道の大家となった。以後、この二氏が双璧(そうへき)として明治時代まで続くことになる。
本来、陰陽道は占術や天文学、暦学を中心とする技術色の濃い学問体系であり、魔術的な要素はない。
にもかかわらず、晴明や忠行が魔術師のように畏怖されたのは、悪神や魑魅魍魎の存在が信じられていたせいであったろう。それら悪しき者たちと戦うとき、優れた陰陽師は方術(ほうじゅつ)を用い、式神を己の手足の如くに使い回したという。
晴明は幼い頃から忠行のもとで修行した。
ある夜、忠行が寝苦しさに目を覚ますと、どこからか笑い声が聞こえる。その声に誘われて庭に出ると、幼い晴明が地面に坐り、その周りを式神たちが笑いながら飛び回っていたという。式神の多くは獣の姿をした下級の悪霊であり、使い方を誤ると、その者自身が悪霊と化してしまう。
忠行は晴明が生まれながらにして特殊な能力を備えていることを見抜き、早く一人前の陰陽師に育て上げなければ悪の世界に絡め取られてしまうと考え、その翌日から「まるで瓶の水を移すかのように」自分の知識と技術のすべてを晴明に教え始めたという。
忠行には保憲という子がいる。晴明より四つ年上の兄弟子である。保憲も優れた陰陽師だったが、その実力は晴明の足元にも及ばない。世間が晴明の力を知れば、安倍氏が台頭し、賀茂氏は没落するのではないか、と忠行は恐れ、
「人前では方術を使ってはならぬ。その代わり、人並み以上には出世させてやる」
と、晴明を戒めた。
名家に生まれたわけでもない晴明が、天文博士、左京権大夫(さきょうのごんのだいぶ)、播磨守などを歴任し、従四位下まで出世したのは忠行の後押しのおかげである。
更新:11月23日 00:05