2018年02月20日 公開
2022年06月02日 更新
晴明神社の鳥居
一度だけ戒めを破ったことがある。
寛朝僧正を訪ねたとき、その場に居合わせた若い公家や僧侶たちが、順調に出世している晴明を妬み、ちょっと困らせてやろうと悪巧みした。
「安倍殿は方術を使うことができるそうだが、本当か?」
「いや、それは……」
「できるか、できぬか、どちらであろう。答えよ」
「できまする」
「それなら、人を殺すこともできるか?」
「できまする」
「ならば、そこに控えているまろの下人を殺してみよ。遠慮はいらぬ」
「理由もなく人の命を奪うことなどできませぬ」
「ふんっ、ならば、あそこに蝦蟇(がま)がいる。あれを殺してみよ」
池の端に蹲(うずくま)る何匹かの蝦蟇を指差す。
「そのような殺生はいたしかねまする」
晴明は固辞したが、
「できぬことはあるまい。やってみせい、やってみせい」
と公達らが騒ぎ出したので、やむなく晴明は庭に下りた。
何をするのかと皆が見守っていると、晴明は足元の草の葉をちぎり、何やら口の中で呪文を唱え、それを蝦蟇の方に投げた。草の葉は、ひらひらと蝦蟇の上に飛んでいき、空中で蛇に変わった。蛇はそこにいた蝦蟇をすべて飲み込んだ。蛇は地面にとぐろを巻いて、じっとしていたが、やがて、もとの草の葉に戻った。見ていた者たちは晴明を恐れ、口を開く者もいなかったという。
後から、この話を聞いた忠行は烈火の如く怒り、
「わしが生きている間は二度と人前で方術を使ってはならぬ」
と、晴明に命じた。
忠行が亡くなったのは、晴明が四十歳のときで、これ以降、晴明が活躍することになる。
平安の人々は寿命が短い。五十まで生きる者が滅多にいないという時代である。貴族階級の男性は、運動不足や栄養の偏り、病気などが原因で一般庶民よりも短命で、平均すると三十二、三歳で死んでいる。晴明が陰陽道の巨人になることができたのは長命だったことが大きい。何しろ、八十五歳という長寿を全うしたのである。
晴明の最大の功績は、藤原道長を第一人者の地位に押し上げたことであろう。道長は五男で、道隆や道兼という実力のある兄たちがいるので、普通であれば、死ぬまで冷や飯食いのはずだった。
にもかかわらず、ライバルたちを蹴落とし、運にも恵まれて、三十一歳で権力を握る。
運に恵まれたというのは、道隆と道兼が相次いで病死したせいである。
しかし、当時の人々は「運」ではなく、晴明の呪詛(じゅそ)が二人の命を縮めた、と信じた。
二人の兄が亡くなっても、道長にはまだライバルがいた。道隆の嫡男・伊周(これちか)である。
この伊周を、道長は露骨な謀略で失脚させた。これを長徳(ちょうとく)の変という。捏造された陰謀であるにもかかわらず、伊周が強く抵抗もせず、太宰府への左遷に従ったのは、下手に逆らうと晴明の方術で命を奪われることを恐れたせいであった。
平安時代の陰陽道には神秘性に包まれた魔術という側面がある。その神秘性を最大限に利用して、平安社会でのし上がったのが晴明である。その点、冷徹な現実主義者だったとも言えよう。
更新:11月23日 00:05