2017年09月25日 公開
2022年06月02日 更新
晴明神社(京都市上京区)
寛弘2年9月26日(1005年10月31日)、安倍晴明が没しました。平安時代の伝説的な陰陽師として知られます。また晴明の14代目の子孫といわれる安倍有世は、土御門家を称しました。
延喜21年(921)、晴明は摂津国阿倍野に生まれたといわれます。和泉国の信太の森の白狐が母親であるという伝説もよく知られているでしょう。陰陽師の第一人者である賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学んだとされます。幼い頃、晴明は道の向こうからたくさんの鬼がやってくるのを見て、師匠に知らせ、難を逃れた話も伝わります。
天徳4年(960)、40歳の時に天文得業生の晴明は、村上天皇に占いを命じられました。その後、天文博士に。天元2年(979)には、皇太子時代の花山天皇の命で那智山の天狗を封じる儀式を行ない、花山天皇の信頼を得ます。さらに一条天皇や藤原道長からも支持されました。 また陰陽師として知られるだけでなく、主計権助、左京権大夫、播磨守などを歴任し、従四位下の位階を得ています。
寛弘2年、没。享年85。 晴明の活躍は『大鏡』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『平家物語』などにも描かれ、没した直後から神秘的な存在として扱われていたことがわかります。伝説をいくつか紹介しましょう。
・晴明が寺院で僧と話している時に、訪れた貴族から蛙を術で殺せるかと問われた。晴明は「罪作りな」といい顔はしなかったが、近くの草の葉を取って、呪文を唱えて葉を蛙に投げると、蛙は潰れて飛び散った。
・蔵人少将が烏に糞をかけられるのを見た晴明は、それが陰陽師が放った式神であると見抜き、少将に護身の法を施し、一晩中呪文を唱え続けた。翌朝、少将の身内が訪ねてきて、実は少将を呪殺しようと陰陽師に頼んだが、その者が放った式神が打ち返されて、陰陽師は死んでしまったと語った。
・晴明の屋敷の扉は誰もいないのに開閉した。これは晴明が使う式神の仕業といわれた。
晴明は屋敷に近い一条戻り橋の下に、十二体の式神を置いていたという 夢枕獏さんの小説『陰陽師』がコミック化や映画化されて、大ブームとなりましたが、京都の晴明神社は今も多くの人が参拝する人気スポットになっているようです。
晴明神社は晴明の屋敷跡であるといわれます。
更新:11月22日 00:05