服部天神宮(大阪府)にある菅原道真公像
学問の神様として知られ、不世出の詩人でもあった菅原道真。実は彼は、中央官僚や地方行政官として活躍した"一級の政治家"でもあった。当時、財政破綻寸前だった日本で、政治家・道真が為そうとしたこととは──。
※本稿は、「歴史街道」2022年7月号より、一部を抜粋編集したものです。
【天津佳之 PROFILE】昭和54年(1979)、静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。令和2年(2020)、『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞して作家デビュー。著書に『和らぎの国 小説・推古天皇』、6月刊行の新刊に、菅原道真を主人公とした『あるじなしとて』がある。
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
『拾遺和歌集』に採られた菅家=菅原道真の歌です。春の風が吹いたら、匂い高く花を咲かせておくれ、梅よ。主人の私がいないからといって、京に春が来たことを忘れてはならないよ──。
讒言によって大宰府に配流される直前、平生愛した梅の木に望郷の念を託して詠んだと伝わるこの歌は、彼自身の悲劇性とともに後世に伝わり、道真を慕って京から大宰府へと空を渡った飛梅伝説を生み、彼を祀る天満宮の神紋「梅紋」の由来ともなりました。
優秀な学者であり、不世出の詩人であるだけでなく、異例の出世を遂げて顕職に昇った秀才。それに反感を抱く藤原氏に、大逆の濡れ衣を着せられ、失意のなかで亡くなった無念の人。そして死後、自身を陥れた藤原氏に祟った"天神"──。
そのイメージは彼の没後、比較的早い段階で固まっていき、怨霊伝説や天神信仰、義太夫節などの創作を生み出すことになります。
実際、若年のころから秀才をもって知られた道真は、若くして中央官僚として内裏に勤め、国政を最終的に決定付ける公卿の一員にまで昇っています。
が、その政治家としての治績は、当時の公式文書にまったく残されていないのが実状です。彼の施策として知られる寛平6年(894)の遣唐使中止でさえ公式文書にはなく、彼が著した漢詩文集『菅家文草』に書き留められた上奏文によってのみ確認できるのです。
道真の官歴を見ると、若いころから民部少輔などを歴任しており、讃岐守として地方政治の現場も経験した、民政のエキスパートとしての顔が浮かび上がります。
この時代の日本は財政破綻寸前の窮状にあり、抜本的な解決策が望まれていました。そのなかで、道真は官僚として、政治家として、何を考え、何をしていたのか。それを『菅家文草』から紐解いてみます。
まず、道真の経歴を振り返ってみましょう。承和12年(845)、菅原是善の三男として生誕。長じて学生として大学寮で学び、18歳のときに中央官僚の登用試験の最高峰である「方略試」に挑む文章生に、23歳で成績優秀な特待生待遇である文章得業生に選ばれます。
26歳で方略試に合格すると、玄蕃助・少内記をはじめとして官途につき、あとはとんとん拍子に出世していきます。
兵部少輔、民部少輔、式部少輔、文章博士、加賀権守、42歳のときに讃岐守として地方に出ますが、4年で任終。そののちは、蔵人頭、左中弁、左京大夫、参議、式部大輔、左大弁、勘解由長官、春宮亮、侍従、近江守、中納言、春宮権大夫、民部卿、権大納言、右近衛大将、中宮大夫、そして55歳で右大臣に達しました。
こうして見ると、地方転出後10年で目覚ましい出世を遂げていることが分かります。しかも、その道筋は民部省(諸国の租税や財政一般、荘園の認可を管轄)、式部省(文官の人事考課を管轄)、弁官(朝廷の中枢行政の実務官)に集中しており、一貫して実務能力を問われる立場にありました。
学究一辺倒、あるいは世俗と離れた雅人ではありえない出世コースです。もちろん、道真が当時一級の学者、詩人であったことも事実です。ただ、その雅人としての顔と行政官としての顔は両立、むしろ一致していたと言ってよいでしょう。
それを示す作品として、『菅家文草』より「寒早十首」(巻3の200〜209)の内容を紹介します。
更新:11月21日 00:05